『完全自殺マニュアル』完全批判(2)

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 これから何回かにわたって『完全自殺マニュアル』批判を展開していくが、ところで、このような軽いノリでかなりいい加減に書かれた本を、何のために目くじらを立てるかのように批判するのか、ここでその意図を明らかにしておきたい。

 まずその論理の拙劣さにもかかわらず、『マニュアル』のメッセージの影響力と危険性、そしてそのことの責任は、いまだ大きいということである。100万部以上売れているベストセラーであることは知らなかったが、さらに現にネットで検索してみても、『マニュアル』はいまだに売られ多くの信奉者を産み続けているらしいのだ(「何者も信じない」という人間と、それを信奉する多くの人という、いたるところで見かける不思議な構図)。

 危険性と責任に関して同書は、自殺の方法という単に事実的な情報を提供しているにすぎず、社会責任上何ら問題はない、自殺しようが読者の自己責任において「勝手にしてくれ」とうそぶいている。

 もちろん同書の内容は、既存の法令に抵触するものではないらしいし、現に堂々と書店で売られ続けてきたように、残念ながらぼくらの社会の一般的な倫理水準もこれを見過してしまってきている。現在に至るまで『マニュアル』に対しては多くの批判があったらしいが、いずれも「キモチワルイ」「あってはならない」という感情レベルのものであったようだ。

 ここで問うのは道義的責任である。同書が自己責任能力と判断能力の未成熟な中高生を中心とした若年層をターゲットにしていることは明らかである。そして多くの生きる意欲を見失っている精神的に未発達な若者に対して、ごく簡単に「死ねる」方法を提供しているということ、さらに実際それで自殺した人間が多く出たということは、どう言いつくろっても無責任な自殺幇助行為である。

 「単なる情報提供」の裏には、そういう自殺を煽るようなメッセージを真に受ける、生きる自信を見失った若者が多いという計算と、そして実際に死ぬ人間が出るだろうという推測がはたらいていたのは明らかである。目論見どおり、それによって著者も出版社も大いに潤ったわけだ。

 むろんニヒルに居直った著者も売上至上の出版社も、「道義」を問うたところで冷笑するだろう。残念ながらこの日本社会の現在の倫理水準はそれを問うことができていない。しかし道義とは、本来その人自身が気づかない深層の声が問うものである。著者・鶴見氏の生き様は今後そのことを証明していくだろうという意味で注目に値する(というか、現に証明しつつあるようだ)。

 ところで、自殺を当然のものとするそのシニカルで一見特殊に見えるメッセージが、実はこの社会の暗黙の共通感覚を単に暴露し先鋭化させたものにすぎないのは、すでに明らかにしたとおりである。そのような無意味感、脱力感は、とくに若い世代においてすでに行動の基調というか原理となっているものであって、何ら目新しいものではない。

 若年層による、一見不可解な問題行動の激増の背後に、そうした倫理的な「底づき」感があるのは、おそらく異論の生じないところと思われる。この『自殺マニュアル』を批判することは、そのような危うい雰囲気化した常識を問い直し、乗り越えることでもあるのだ。

 『マニュアル』に典型的に現れた思想的混乱は、粗雑な物質科学主義・還元主義と、集団という契機を忘れた個人主義的民主主義を基調にした現行の学校教育を受けて育った人間が、ふつうに突き詰めると最後に必ず到る隘路なのだと思われる。
 そういう学校教育の暗黙のプログラムが敷いたレールを、まっすぐ素直にたどっているという意味で、一見過激に見える著者の姿勢は、実はあまりにもありふれていて陳腐である。

 しかしそのような行きづまりを相対化し超える視点は幸いなことに存在する。それをもとに、古いものは古い、誤っているものは誤っていると、ここではっきりと断言する必要があると思う。

 さらに個人的な怨恨ということがある。かつてそのようなメッセージ(もちろん鶴見氏のものに限らず)を真に受け、「まったりと」脱力して若い日の多くの時間を無駄にし、手元の『マニュアル』でひょっとしたら死んでいたかも知れない自分、そして実際に死んでいった多くの自分に似た者たちがいるということ、さらにそういう錯覚を煽って恬として恥じない人間がいるということに、憤りを感じるのだ。しかしそのことは論旨とはまた別のことである。

 ところで、ここで批判者である自分のコンテクスト・意図を明らかにしておく必要があると思う。何を正しいことと考えるか、それをもとに何をどうしたいのか、というシンプルな問いが共有できていないと、そもそもあらゆる議論は成り立たないからである。

 自分はシンプルに、人が生きることの根本の動機とは、他者と仲良く、社会をよりよく、そして人生を意味深く、ということに尽きると考える者である。一見小難しく聞こえる思想というものは、その現実をあとから説明するために出てくるものであろう。また幸いなことに、そういうシンプルな事実を科学に基づいて思想的に裏付けることができるという時代に、ぼくらはすでに生きている。
 そしてそのことを阻害し退行と絶望に至らしめる、毒を含んだ短絡思考を批判的に見る、というのがここでのコンテクストである。
 これはあまりにナイーブに聞こえるだろうか?

 しかし表層的な価値観に右往左往し、深層から湧き上がってくるものに翻弄されながら、ぼくらが心から求めているのは、自覚できているとできていないとにかかわらず、実はそうした単純な人生の事実であるはずだ。そうでない人がいるのだろうか?

 そして、極端なニヒリズムで身構えた同書の空虚な論調の背後に、じつはそういう隠れたシンプルな願望があきらかにはたらいていることが見て取れるのである。ひじょうに歪んでしまっているために、著者本人も自覚できていないようだが。

 とまれ、「批判のための批判」というよくある不毛な泥沼に陥らないよう、自分の足元に気をつけて進んでいきたいと思う。
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# by type1974 | 2005-09-10 23:46 | うつ

『完全自殺マニュアル』完全批判

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かつて『完全自殺マニュアル』(鶴見済著)という本が世間を騒がせた。

 その自殺を奨励するようなミもフタもない内容は、当時オウム事件で社会倫理的な「底が抜けた」脱力感をいだき、宮台真司氏の「終わりなき日常」「意味もクソもない」という言説に説得力を感じたとくに若い世代を中心に、ちょっとした社会現象にもなったものだ。そして実際に少なからぬ自殺者に生んだという。

 たしか発刊はちょうど自分が大学に入ったころだったと思う。当時の暗くて索漠とした気分にぴったりの、無機質でアイロニカルな装丁が目を引く同書を書店で見かけ、即座に購入したものだ。そしてその内容に「ああ、キツけりゃ死ねばいいんだ」という「答え」を得たような気になったのを思い出す。

 あとで聞くと、親はそんな本を買って実際に死ぬんじゃないかと心配していたそうだ。死ぬ気はなかったけれども、何かつらいきっかけがあればわりと簡単に実行していたのではないかとも思う。『マニュアル』に書いてあるとおり、自殺はかなり簡単なことだから。

 その反(非)社会的な内容が問題視され、当時の朝日新聞で特集が組まれていたのを思い出すが、その論調はたしか「自殺はよくないけれども、死にたくなるようなこの社会で若者が自殺に出口を求めているのはもっともであり、その主張は否定できない。われわれはその現実を見つめなければならない」と、『マニュアル』が述べていることを追認するようなものであったと記憶している。
 何せ良識派を自認する大新聞がそう言っているので、これで社会的なお墨付きが与えられたのだと思ったものだ。いま思えば何と無責任な、と腹立たしく感じるのだが。

 もはや手元にないので覚えている範囲であるが、『マニュアル』の言っているところをつづめて説明すると:

・この世の社会構造は強食弱肉で、ひたすら抑圧的な意味もなくくだらないものである。
・そこでは人は歯車となるかドロップアウトするかしかなく、くだらない人生を押し付けられた被害者であるにすぎない(一貫した斜めに構えた被害者意識が同書の語りの特徴である)。
・人間は自分の弱い心、社会に適応できないダメな心を、結局どうすることもできない。
・その「真実」にどうしようもなく気づいてしまった人間、および歯車にもアウトサイダーにもなれない心の弱い人間が、そこからの出口としての自殺、手段としての死を、自分の権利とするのは当然である(自分には世の中のウソを暴露する能力がある、というナルシシズムもまた著者の基本的姿勢である)。
・そのために首つりから飛び降り、轢死、etc…の方法を、実例を交えて列挙する。クールにドライに、軽くてフラットに、かつおもしろおかしく。

ということになると思う。

 昨今、集団自殺の連鎖が社会現象となっているが、それを無責任に煽っているネット上のいわゆる自殺系サイトも、基本的には似たようなスタンスの同工異曲だろう。『マニュアル』はそれらのはしりだといって差し支えないと思うが、どうだろうか。

 しかし多少年齢と学びを重ねたいまなら、同書がどうまちがっているのか、そして毒が盛り込まれたいわば社会的「悪書」がなぜ正当に排撃されることがなかったのか、はっきりと言うことができる気がする。

 まず自殺に向かって吸い寄せられてしまうような、心の落ち込み状態、無気力、絶望感とは、その人の固定的な性格特徴であり、もはや変えることのできないものであるという、著者の無前提な人間観について。

 これまでちょっと書いてきたように、人間の主観的な気分や思考、信念というのは、自覚すればかなりどうにでもできるものであるのは明らかである。
 またそのことを、臨床心理学、人間性-トランスパーソナル心理学、さらには人間の内面に関する古代の哲学・方法論である仏教(呪術-神話的な信仰対象としての仏教ではない、念の為)は、幾多の臨床的データをもって明らかにしてきたのではないだろうか。

 もしこのことに対し反論するのならば、実際にそれらの方法論を批判者が試みた上で(方法を正しく履行したか検証を要することはいうまでもない)、直接経験された内面的・主観的結果にもとづいたものでなければならないだろう。または自分で独自の臨床例を積み上げて反証せねばならない。
 それが言葉の正しい意味での科学的姿勢というものだ。

 しかし世間的な常識では、人間の性格上の問題というのは、遺伝的欠損や幼児期のトラウマが刻み込んだ脳みその機能不全が原因であって修正不能、というような、粗雑な人間機械論が基調になっているといってよいと思う。
 つまり同書の一見真実を抉っていると見えるミもフタもない修正不能の人間観とは、実は単に世間的な常識に迎合したものにすぎない。
 要するに、人間とはこういうものにすぎないとクールに現実を洞察しているように見えて、人間の主観的な事実、心という内面のリアリティに決定的に疎い、ということである。

 次に、自殺を推奨する同書の主張の根拠は、かなり薄っぺらい通俗的なニヒリズムに基づく人間観・社会観であるのは明白である。
 しかしそうしたニヒリズムは、ちょっと自分の生きているあり方を反省してみれば、根本的な認識不足・錯覚にすぎないことがすぐわかる。
 その上、あまり知られていないことだが、近代主義に基づくニヒリズムとは、もはや現代科学が主流の今日において根拠を失ってしまっているものである。いいかえれば、前提自体があまりにも古くさいのだ。

 次回以降、べつに述べていくが、それらのことに無自覚に、あたかも自分が人間の真理を喝破した者であるかのごとく、脱力と死を奨励する著者の教祖化したナルシシズムは、古いを通り越してあまりに恥ずかしい。
 著者の、自分の視点の偏向と依って立つ背景に無自覚な、きわだったナルシシズムも、この本の批判されるべきポイントである。

 ところで、そうした人間機械論やニヒリズムが、この社会の暗黙の本音としてすでに自明化・空気化しているのは、おそらく論をまたないことである。
 だからこそ、そのことに見て見ぬふりをしている良識派の代表(いわば「いい子」の最大公約数)である大新聞も、そこをあからさまに衝かれると、眉をひそめつつ、それが世間の良識の裏にある「真実」であることを認めざるを得なかった。その本音こそ、さきに紹介した「朝日」のもっともらしい論調の背後にあったものだと思う。

 おそらくいま、ジャーナリズムのいわゆるオピニオン・リーダーから市井のぼくら一般人まで、「意味もクソもない」という無自覚なニヒリズムがいわば当たり前の共通感覚・常識になってしまっているといってよいと思われる。そのためにぼくらは、なぜ自殺が悪いことなのか、はっきりと言葉で言うことができなくなっているのではないだろうか。

 つまり、「自殺は悪いことなんだよ」と言う、その根拠が言えなくなっているということである。どころか、「自殺も本人の価値観にもとづく自由な選択なので仕方ない」と思っている人すら多いようである(「死にたいやつは死ねばいい」とは、かつて自分も本気で思っていたことである)。
 この本がかつてそれなりに流行したこと、それがいま自殺系サイトにおいてたくさんの亜流を生み出し、多くの脱力した人を引き寄せている背景には、こうした世間的な暗黙の常識があると見える。

 このように、『マニュアル』の著者の、一見この世の暗い事実を暴き出したかのような、寒々しいけれども本当の新しいリアルだと思えた主張は、じつはこの世間の常識的な暗黙の雰囲気に安易に乗っかったものであるにすぎない。だからこそすこしばかり流行したのだろう。

 そしてこのような本が堂々と普通の書店において平積みで売られつづけていたのだ。
 社会的責任という自由の本質的に重要なもうひとつの側面を捨象した、「あらゆる言論には、その社会への悪影響いかんに関わらず自由が保証されなければならない」という、あまりにも一面的で単純化された自由観が、その一見なにげない書店の日常の背景にあったことが見て取れる。

 そのころから始まったように思うのだが、さらにいま、個人がどのような情報を手に入れようとそれは「自己責任」においてその個人の自由-勝手であるという風潮が、なし崩し的に、とめどもなく進行している。
 ぼくらがコンビニで、子供が手に取ることができる書棚にあからさまに18禁の本が置いてあるのを最近見かけるようになったのも、ネット上で有害情報の氾濫(どころかそっちのほうが大多数に見える)が野放しになっていることも、そうした病理的な社会的雰囲気に根ざしたものであると思われるのだが、どうだろう。

 しかし悪いものは悪い、誤っているものは誤っていると主張せねばならない。でないと社会も、その中に生きる個人も、「みんな違ってみんないい」という没価値的なうんざりする多様性の中で、方向性を見失って溶解してしまうからである。というかそれこそが、ぼくらが強い違和感をもって現に日本社会に見ている倫理的崩壊現象なのではないだろうか。

 すべてが平等に尊重されなければならないというのは、自由と多様性がことのほか礼賛される現代にあっては当たり前で、むしろ正しいことのように思われるかもしれない。
 しかしそれを極端に押し進めて、すべての視点に平等な価値があるとするなら、人間的成長と自殺、慈悲と殺人、平和と戦争、エコロジーと環境破壊、マザー・テレサとヒトラーが、同じように尊重されねばならないことになってしまう。それは単なる思考停止・判断停止である。
 これは極論だろうか?

 ここで俎上にする『マニュアル』は、そもそも思想とも言えない思想がベースになっており、いろんな詰めの甘さがあって穴だらけなので、批判するのは幸い容易である。
 引き続き学び得た範囲で根拠をもって、同書ならびに同書が代表したような虚脱的な厭世観がいかに偏狭な錯覚に基づくものであるか、さらにいまの視点で見るといかに「恥ずかしい」ものであるかを、明らかにしていきたいと思う。
 記憶を頼りにやっているので錯誤が当然あると思うが、その点はするどくご指摘いただければと思う。

 かつてこの『マニュアル』に影響を受けたものとして、一度はっきりと言葉でこの本を斬っておくことは自分にとって意味があることだし、またこの本の二番煎じや自殺系サイトを見てなんとなく納得してしまった方が、そうした一見もっともらしく聞こえるニヒルな真理主張にじつは根拠がないことをちょっとでも納得していただければ、とてもうれしい。

 かつての自分に語るつもりで、このことを書こうと思う。
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# by type1974 | 2005-09-08 15:14 | 自殺

バスと猫とおじさん

自分、某公営バスの営業所に勤めていまして、残業・宿泊盛りだくさんだけれども、給料がけっこうよくて食堂格安・風呂はタダという、喜んでいいのか悲しんでいいのかよくわからない環境におります。

夜中など、ズラッとならんだバスバスバス…を横目に見回りながら、「ああ、時間があったらあれもできるのにこれもできるのに」などと愚にもつかない思考が巡ったりしています。(そのわりには休日はゴロゴロして「あ、きょうは一日誰とも話さなかったよ」ってなったりしているが?)。

なかなか緊張感のある職場で、ちょっと癒される感じがするのが営業所に居ついている猫を見かけるとき。白地に茶トラの斑のやつと同じく雉トラの斑のやつが二匹。
おんなじような細身なので多分きょうだいかと。前者は遠慮なく車庫にどてっと寝てたり態度がでかい。雉トラ斑は微妙な距離感をおいておどおどとついたり離れたり。しっぽの先が気になる動きをして、見飽きないですね。

さて、こうして居着いているからにはどうせ食堂のゴミでもあさっているのだろうと思っていたら、意外な光景を眼にしてしまった。

バスの運転手さんって、まあいろんな人がいるんですが、けっこう一匹狼的な方が多い。
中でもパンチにヒゲにガラガラ声の、キャラのひじょうに濃い、バスの運転手じゃなかったらどういう職業の人なのか?と気になるおじさんがいるんですが、その人が猫に餌をやっていたのです。
わざわざ猫缶を用意して、いないほうの猫を「ミー、ミー、どこだぁ」って呼んでました。例のガラガラ声だ。聞けば出勤のつど餌をあげてるのだそうで、さらには私費を出し合って避妊・去勢手術をしてあげたとのこと。

見かけによりませんね、人って・・・。
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# by type1974 | 2005-09-05 15:59 |

過去を「反省」するとは

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 ぼくらは、大きな「私たち」である日本の過去をどのように捉えればいいのか。

 日本が過去に侵したとされる戦争犯罪はたしかに反省すべきだが、かといって、客観的な検証がないまま相手の言うことを鵜呑みにして謝りつづけるのは言葉の正しい意味で「卑屈」だ。卑屈な人間はカモにされる、というのは国際関係にも当てはまると思う。

 反省は自己非難や卑下とは似て非なるものだ。にもかかわらず、それが無自覚なまま概念的に混同されているために、ぼくら国民に大きな認識と感情の混乱をもたらしていると思う。とまれ、反省するためには当時の大きな状況を公平に踏まえる必要があるだろう。

 たとえばぼくらは、かっこよくてフェアなアメリカが軍国主義日本をうち破って平和と自由と民主主義をもたらしてくれたと、ほぼ条件反射的に考えているといって差し支えないと思うが、どうだろうか。

 しかし日本が戦争犯罪をおこなったというなら、彼らの行った都市への無差別ジェノサイド爆撃も原爆投下も、一般市民の虐殺として同じように犯罪的であるはずだ。

 とくに原爆ついてははっきりしている。
 アメリカはその威力を確認すべく人口の大きい都市を投下目標に選定して、焼夷弾による都市爆撃リスト(アメリカは人口順に日本の都市をリストアップし、頭から虱潰しにしていたのだ)から除外し無傷のままで保ち、その人間の生活する都市の上で原爆の威力をテストしようとしたのだという。
 実験のためには被験者は健康でなければならない、ということか。計画的という意味でも、まさにかのアウシュビッツに劣らぬたいへんな非人道的犯罪といって間違いない。

 もしそう捉えることに抵抗があるとすれば、それは「原爆投下は正義のためだった」という彼らのバイアスを、とてもすなおに自分のものであるかのように鵜呑みにして、疑問を抱いていないからだと思う。もちろん戦後民主主義教育で育った自分にも、そういう抵抗感がこうして書いていて現にはたらいているのを感じる。

 ちなみに京都や奈良、鎌倉は文化財保護のために爆撃目標とされなかったという「美談」がいまでも通用しているようだが、それはGHQの民間情報教育局による意図的な政策宣伝がマスコミを通じて流布したものであるとのこと。

 実際には、京都は最後まで原爆投下の第一目標にあげられており、他の投下目標と同じように原爆のために「予約」されていたために通常爆撃を免れていたにすぎない、というのが真実らしい。三発目の原爆は敗戦の日までに完成して投下寸前となっており、京都の運命は風前の灯火ともいえる状況であったという。

 奈良、鎌倉が爆撃を受けなかったのは、単に人口が少なかったために爆撃リストの下位にあったからであって、奈良については爆撃直前に到っていたという。

(『京都に原爆を投下せよ』吉田守男著、参照。きまじめな研究書で、米国の一次史料にもとづいてこのことをほぼ論証しているといっていいと思われる。)
 
 このような意図と性格を持った原爆投下や都市空襲が、これまで日本ではあたかも自然災害や罪を犯した国への天罰であるかのように語られてきたのではないだろうか。でなければ、あたかも犯人の存在しない犯罪のように。

 例を挙げるまでもなく、そのほかのどの国も多かれ少なかれ、いずれこうした戦争の罪責から自由ではない。もっぱら他者を非難する者は、だいたい自分自身の足下への注意がおろそかになっている、というかなかば意図的に見ないふりをするものだ。

 もちろん、だから日本が免責されるということではなく、そうした世界の相互関係と、通史的な大きな枠組みで捉えなければ議論にならない、ということにすぎない。

 思うに、歴史に免責はないというのなら、戦争犯罪を論じるには、原則的には歴史始まって以来のすべての戦争を取り上げなければならないことになるはずだ。いつから時効になるかを決めるとしても、それは恣意的な線引きにすぎないだろう。

 歴史を通してみても、同時代の国際関係を考えても、あるひとつの事柄を取り上げて、「自分たちは悪事のみをおこなっていた」とか、「お前は絶対に悪くて、自分は完全に被害者だ」ということはできない。
 にもかかわらず、そうした硬直的で粗雑で過度に一般化された議論、というか非難合戦が横行しているように見受けられる。不毛というほかないと思うのだが。

 思考の硬直化、極端化、過度な一般化は、とても有効な心理技法である論理療法でいえば、まさに《イラショナル・ビリーフ》、つまり非合理な思い込みの特徴である。

 歴史的事実の認定という議論もさることながら、それ以前に必要なのは、ぼくら個々の国民が日本人としてのアイデンティティに関わる非合理的な思い込みと取り組むこと、そしてそれを通じて集団としての日本文化が、非合理的で教条的な自己非難から解放されることであるように思われる。

 日本近代史は罪悪の歴史であるとほとんど条件反射的に捉えてしまうような、ぼくらが学校教育やマスコミを通じて植えつけられた歴史認識、いわゆる「自虐史観」に、そのような硬直化した信念・思い込みがはたらいているように見受けられるのだが、どうだろうか。

 アカデミックな歴史研究を例にとると、一見きわめて理性的にクールに、文献的証拠や先行研究を踏まえて歴史的事実の解明をおこなっているように見えながら、そもそもそうした研究を行わせている動機や、テクストから「歴史的事実」を読み取るコンテクスト、学会の何が正しいのかを判定する基準、それらの背後・深層に、自明のものとしてはっきりと自覚されないかたちで、そうしたビリーフがはたらいているということである。

 個々人に落ち込みなどの心理的問題をもたらすイラショナル・ビリーフとは、思考の枠組みとして半ば無意識化しあたりまえのものになってしまっているために、当の本人は往々にしてそれがあることに気づいていない。人に指摘されて「ああ、そういえば」と気づくものだ。
 要するに、あまりに自分の視点に近すぎて、というか視点そのものとなって距離ゼロになっているために、盲点に入ってしまっているのである。

 すると、もし戦後のいわゆる進歩主義史観、いまでは上はアカデミズムから下は小学生に到るまで、疑いもなく抱いて常識となっている歴史観のベースに、そのような理に合わない潜在的な思考がはたらいているとしても、それが反省されえないのはいたしかたないとも言える。

 人は文化的文脈のなかで善悪や何が真実なのかという価値判断を行なうものだが、その文脈・文化的枠組み自体を相対化するというのは、普通に生きていたら難しいことだし、大学アカデミズムでポストを得てそのことでエスタブリッシュしている歴史学者にはなおさら難しいことだろう。

 自己非難によってうつ状態になっている人は、典型的に次のようなイラショナル・ビリーフを持っているという(これは落ち込みがちな自分を振り返ってもきわめて納得がいくことだ)。
 歴史認識にかかわる、いろいろもっともらしい議論の背後に、このような自明化された理に合わない信念がはたらいているとあきらかに見てとれるのだが、どうだろうか。

・罪を犯した自分たちは絶対に悪く、つねに罰せられなければならない。
・われわれの過去は、すべて罪悪にまみれている。
・自己批判こそが真実と正義をもたらす。
・自己愛や自己承認は傲慢におちいるので危険である。
・悪いことをした自分は、迷惑をかけた人々を批判してはならない。
・そのように判断する自分たちの見解はぜったいに正しくなければならない。

 見てわかるとおり、現実的視点から論駁する余地のいくらでもある、論理にならない論理である。つまりイラショナル・ビリーフとはそのようなものなのだ。しかし体験上よくわかるのだが、気づいて取り組めば確実に換えていくことができる。
 まず気づくことが治療の第一歩になる。そしてそれは個人に限っていえば、かなり容易な作業のようである。

 ぼくらが国民として、集団に生きる個人として、自信・自尊心を取り戻すためには、右に左に歴史認識を云々する以前に、自らの思考を無自覚なところで規定しているこのような思い込みを、自覚し、論駁し、解消する必要があるだろう。
 繰り返すが、それは思った以上に容易な作業であるようだ。
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# by type1974 | 2005-09-02 18:54 | 歴史

簡単な紹介の、つもりが

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 あっと、いろいろ書いていて、落ち込み克服の学びをお伝えしている途中だということを忘れてしまった!

 『生きる自信の心理学』(PHP新書)という本の、私の見るところの第一の特長ということを途中まで書いたところでした。
 それは私が今まで見たどの本よりも、「自信とは何なのか」ということの核心が掴まれているということです。そのことについて自分的にも復習をかねて、受け売りを書いてみたいと思います。

 まず自信がある・ないとか、落ち込んでしまうということのもとになっている心の構造がどうなっているかが、きわめて簡潔に説明されています。

 それは、
①私たち人間の自意識的な心は、主体である「見る自分」と、対象としての「見られる自分」にわかれていて、
②その「見る自分」は、「見られる自分」について何らかのセルフ・イメージをいだいており、それに対していつも内面のセルフ・トークでもって語りかけている、
③そしてセルフ・トークはセルフ・イメージにもとづいてなされ、またセルフ・イメージはセルフ・トークによって形成される、つまりイメージがトークを生みトークがイメージを育てるという、心の中の循環がつねに行なわれている、
④しかもその循環は、だいたいが無意識のパターンとして習慣化・自動化していて、かならずしも常に自覚されているものではない、

ということです。

 つまり、私たちは自分について「これが自分だ」というセルフ・イメージを持っており、「おれって○○だ」というセルフ・トークを行なっている、そしてそれがいつもぐるぐると心の中をめぐっている、ということですね。

 すぐにわかるとおり、その心の中のイメージとトークの循環が、持続的にプラスなっていれば自信があるということになるわけです。
 そしていうまでもなく、「ダメな・バカな・つまらない自分」というイメージをいだき、「ダメだ、バカだ、おまえはつまらんやつだ!」というトークで自分に語りかけ、そしてそれが習慣化していると、それがまさに落ち込みということになります。

 この構造は、現にいま自分の心がどういうふうになっているかをちょっと反省してみるだけで、「ああ、そうだ」と自覚できることではないでしょうか(というか、そうでない人がいたら教えてほしい)。
 当たり前すぎていつもは気づいていないだけで(つまり無意識化・自動化している)、しかしすこし内省すれば、いま自分の内面がそういうふうにはたらいていることはすぐに自覚されると思います。

 どうでしょうか。落ち込んでいるときって、まさにそういうふうな悪循環になっていないでしょうか。私は自分が落ち込んでいるときまさにそうやって悪循環にはまり込んでいるなと、ひじょうに納得してしまいます。
 ぐちゃぐちゃと思い煩っているときは、なにかひじょうにたいへんなことのように思われて解決不可能のように感じてしまいますが、ちょっと距離を置いてこの図式で見てみると、起こっていることはとてもシンプルです。

 つまり、気持ちが落ち込んで鬱状態になっているから、ネガティヴなセルフ・イメージに陥り、セルフ・トークが「もうダメ」となってしまうではない。
 まさにダメなセルフ・イメージとセルフ・トークが落ち込み・鬱をもたらしている、ということになります。

 この本にあるとおりに自分で実践してみて、少なくとも落ち込み・鬱ということに関しては、「タマゴが先かニワトリか」ではなく、明らかにトークとイメージが先、ということがよくわかってきました。
 (すると私たちは、自分がやっているイメージとトークによって日々自分の心を形成している、ということが言えてくると思うのですが、これはどうでしょうか?)

 つまり落ち込みや鬱は、単なる脳内の自然現象とか外界のストレス状況への反応なのではなく、セルフ・イメージとセルフ・トークによって自分が自分にもたらしているという側面のほうが、一般に考えられている以上に決定的だということになります。

 ようするに、「落ち込み・鬱を克服するためには、セルフ・イメージとセルフ・トークを修正し改善して、それを習慣化すればよい」というのが、シンプルな事実であるようです。

 とりわけ、すぐに実行できるのが、自分に言ってあげるセルフ・トークを肯定的なものにする、ということではないでしょうか。
 なんだ、ことはそんな簡単だったのか!(実践はけっこうたいへんだったりするのですが)

 それにしても、とくに自分に対して語りかける言葉が、このように落ち込みや鬱ということにとって決定的であることがわかってみると、自分が日常、いかに習慣的に無自覚に言葉を使ってしまっているかが痛感されます。習慣化したイメージから湧き起こるセルフ・トークに翻弄されているという感じです。それに気づいたら改善あるのみ。

 これは安っぽい自己暗示術や単なる励ましではないと思います。
 内面の言葉がいつものようにネガティヴなものになっていたら根気よくそれに取り組み、改善を積み重ねていくことでよりよい自己イメージを形成すること、それはまさに内面のトレーニングであるという印象です。

 言葉が単なる外界の形容や内面の表現のための道具なのではないこと、言葉は自分の心に対して意外にも強力にはたらいていることが、この本に載っているワークをやってみて「目からウロコ」的にわかったことです。
 心の中の言葉というのはおろそかにできないなと思わされます。人は聞いていなくても、自分の心はつねに聞いているのですから。

 この本では、自信とは単に自分の中だけで完結するものはなく、他者との関係においてこそよりほんとうの自信となるとされています。
 さらに、いちばん大きな他者である世界・宇宙の中に生きて生かされている自分にゆるぎない自信をもつという、ひじょうに壮大なセラピー理論というかビジョンが語られています。これこそが、単なるセルフ・ヘルプの本と思って手にとって、あとでびっくりだったポイントです。

 しかしそこに一貫しているのは、以上のようなセルフ・トークとセルフ・イメージの改善をどうするか、という方法論だと思われました。その「セルフ」とは、社会の中の自己であり、世界・宇宙の中の自己である、ということだと思います。

 冒頭の箇所の紹介だけでこんな長くなってしまいました。とりあえず買って読んでもらったほうが早いかな。
 でもちょっと受け売りでもちょっと付き合ってもらえるとうれしいのです。以下次回。
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# by type1974 | 2005-09-01 02:43 | うつ

空中分解!

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うーん、きのう、きょうはいろいろあって乱高下でありました!

細かいことははしょって、遠慮なく落ち込んでしまった。
巡航高度に達したと思ったら、イキナリ空中分解という感じ。ひじょーにお恥ずかしい。みんな、見ないでおくれー

パターンになった妙なネガティヴな思考パターンがあって、これを克服できたと思っていたのだが、敵は意外に手強く、ちょっとしたきっかけでふたたび活性化してしまうのものなのだなと再確認。

そうするとそれはまるで泥沼のようで、抜け出そうと思ってもなかなか抜け出せない。というか抜け出そうと思うほどますますはまっていく。
(励ましてくれた人、くすぐったかったけどうれしかったよ。ありがとう)

と思ったら、翌日きっかけあって、即座に回復してしまった。
これはご紹介しています『生きる自信の心理学』にある「相互承認」のワークを人とすることのできる機会があって、そこで「ツボ」を押してもらったためです。恥ずかしながら、ほめてもらいたいツボって、あるんですね~。

落ち込みも、そこからの回復も、ひじょうに即座に起こるものだと思いました。願わくば、後者が自在にできるようになりたいものです! しかしそれは練習次第で十分可能だと手応えを得ました。

それはそうと、落ち込みも、そこから抜け出すとけっこう笑えてしまう。
そこにいるとそんな余裕がないように感じてしまいますが、それを超えてしまうと、なんと狭いことにとらわれているのかと思わされます。

空中分解ふくめ、とてもいい時間を過ごせたと思います。いろんなご縁に感謝です。
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# by type1974 | 2005-08-29 00:56 | 落ち込み

台風上等

台風直撃らしく、雨風がだんだん強くなってきた!

バスの営業所に勤めているのですが、こういうイベントがあると、夜中に招集がかかったりします。もちろん今夜も夜中の一時から。とほほ・・・。バス停は倒れていないかな?

このブログをかくことを含め、やりたいこと、やらねばならぬことはたくさんあるというのに(あ、このブログもかなり書くのが楽しくなってきました)、ちょっとうらめしい。

しかし現実感覚を養うにはいい職場かも。

自分はけっこう気が弱いところがあり、とくに人を怒らせてはならない! とか、失敗してはならない! とかという思い込み(論理療法でいうイラショナル・ビリーフというやつ)があるんですが、そういうのをけっこう強く意識される場所です。とにかくあせってしまう。

これは治さねばならない、いやいや、治したいという気にさせられるんです。平和に生きていたら、「ま、あとでいいや」となっているところです。

そういうわけでがんばって、非合理な思い込みを反論・論破していこうかと。
だいじょうぶ、君ならできる!
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# by type1974 | 2005-08-25 22:48 | 心理学

すごいぞ 『生きる自信の心理学』

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 さきにご紹介した『生きる自身の心理学』(岡野守也著、PHP新書)という本について、読んでこれはすごいと思いましたが、実際に挙げられているワークの試してみて、一部だけやった段階でも、すでにかなりの効果が実感できており、いっそうすごい本だとちょっと驚いています。
 少なくとも実行すれば、けっこうきつい落ち込みからも、すぐにといっていいほど確実に回復できる感じです。

 ああ、もっとはやくこれに出会っていれば、貴重な10代20代の時間をうつうつとして無駄にせずにすんだろうに! 人生でほんとうに必要なことはとてもシンプル、ということなのでしょう。
 30代からはこれで逆襲、といきたい。その希望が出てきました。

 そういうわけで、いろいろ紹介する予定だった当初の予定を変更し、しばらくこの本について書いてみたいと思います。自分でも消化しつつ、お伝えできればということで。

 この本については、私が見た限りでの心理学的セルフヘルプの本にはなかった特長が、大まかに三つあると思います。しっかり核心を掴んでいる、という感じです。

第一に、「何が自信なのか?」ということをきわめてシンプルに明確化していることです。
 そのことは本文始めのページでごく短く説明されています。あまりに簡潔なので「ああそうなんだ」という感じで読みすごしてしまいそうですが。

 あ、それはそうと、読んだ後で奥付を見て、はじめて著者がどういう方なのかを知ったのですが、元牧師で、出版社を経て、仏教や心理学を独学で学んで、心理学の研究所を立ち上げ、いまは法政大学で教えておられるようです。異色の経歴、というやつですね。心理学プロパーで学んだ人ではないようです。
 それにしてもトランスパーソナルとは? 唯識って何だ??
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# by type1974 | 2005-08-23 13:55 | 心理学

右でも左でもなく

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 「落ち込み」のテーマとはまったく関係ないが、去る8月16日に靖国神社の軍事博物館「遊就館」に行って来た。
 べつにナショナルな心情で足を運んだのではなく、単に自衛官の友人に誘われてついていっただけで、半分博物館巡りの気分だった。あとちょっと趣味的な興味もあった。

 あの九段の地には独特な雰囲気がある。皇居に隣接し、またすぐ裏に朝鮮総聯の本部らしき建物があって、多数の目つきの鋭い警察官がうろうろしていた。いろんな意味で「濃い」場所だと感じさせられた。

 和洋折衷のふしぎな雰囲気を持つ昭和初期の建築に、最新の「平成館」が併設されていて、そこがこぎれいだが無味無臭な感じの入り口となっている。平日だがお盆とあって来訪者がとても多い。意外にも老若男女、子供連れ、カップル、いろんな雰囲気の人が訪れている。また独りで訪れて展示に見入っている寂しげな老人が多いのが印象的だった。

 入ってまず眼に飛び込むのが、展示の目玉、『零戦』の実機だ。イメージしていたより実物は大きく力強く感じる。その空力的な洗練を究めたフォルムは端的に美しいと感じさせられる。
 ちなみに展示は後期の「五二型」という改良型だが、赫々たる性能を発揮し空を制覇した初期型とは対照的に、満足な性能向上を遂げられず、発達を重ねる米英機に敵することができないまま、多くが特攻機に用いられたという、悲しい歴史の“証人”だ。NHKの特集番組『欠陥機・零戦』を見てご存知の方も多いと思う。

 展示はもっぱらさきの戦争以前の日本近代史を軍事的に回顧する内容に終始している。
 まず明治維新以来の歴史を、列強の脅威への対抗、そしてそのための必然的なアジアへの進出、という文脈で紹介したパネル展示をくぐり抜ける。そのひとつひとつを見ていくと、自分が知らない事はとても多いのだと思わされる。ぼくらが学んだ学校の日本史がだいたいすっとばしている部分だ。
 公平にいって、そこには戦争そのものを批判的に見るという視点、そして自他に多くの災厄をもたらしたという反省の視点が欠けている。そのようにいろいろ批判すべきところは多いに違いないが、しかし展示が主張する「我が国の物語」には、正直心情的に感じさせられるものがあった。あくまで心情的に、だが。

 特別展示は「日露戦争」だった。全然意識していなかったが、今年は日露戦争百周年に当たるのだ。その胸のすくような勝利(実際には数々の苦闘があったという)には、遠慮のない賞賛が送られている。威勢のいい記録映画のナレーション。紹介されている軍人たちの顔が凛々しく見えてくる。
 むろんこうした戦争観は一面的であり、そういう意味でいえば独善的なものには違いない。ぼくらは戦後民主主義的ないしマルクス主義的な歴史観を教わってなんとなく自分のものにしているので、こうした愛国史観をクールに批判的に(それも考えてみれば一面的なものの見方であることには変わりない)見るように条件付けられている。それはそれで必要な反省の視点だ。
 しかし、同時代の物品の数々を見て、少なくとも当時の国民感情がこの戦争に「本気」であったこと、そして戦勝を実にすなおに誇ったことがうかがえた。それはすぐに優越感-傲慢に結びつくような危険な心情でもあったわけだが。展示は、その感情を自分たちのものとして共感的に理解しようとつとめている、ということは言えるだろう。だから見ているぼくらの心情のある部分を揺さぶるのだと思う。

 そこから先、銃弾の穴のあいた軍服、実際に使用されていた武器、家族に宛てた兵士の最後の手紙、歴代の天皇の思い出の品々、特攻隊の遺品、等々の展示が続く。みんな興味津々といった感じで眺めている。涙を流しているらしい中年女性もいた。茶髪の兄さんも多い。老いも若きもごく普通の人たちに見える。

 最後に大きい吹き抜けの部屋に出るのだが、そこにはさきの大戦で使用された兵器の実物と模型が展示されている。なかでもひときわ目を引くのが、多数が特攻に用いられた艦爆『彗星』と人間魚雷『回天』、そして特攻兵器『桜花』の実物だ。
 そして南方の島々から帰ってきた遺品がショーケースに並べられている。そのなかに穴の開いた錆びたヘルメットがあったりする。これをかぶっていた兵士は確実に死んだだろう。

 遊就館の展示は、近代の歴史を誇らしい国民の物語として主張するという、その目的にそって効果的に演出していると思ったが、しかし最後はやはりここに至ってしまうのだ。
 立派な若者たちの、文字通り命をかけた出撃。心情的には想像しがたいけれども、特攻とその死がある種崇高に感じられるのは確かだ。しかし事実は、そのほとんどが有効な戦果を挙げることができなかった。
 『桜花』の寸づまりで一見ユーモラスな外観が悲しく見える。米軍はこの必死の兵器に「BAKA」というコードネームをつけたという。

 特攻に代表される、歴史を回顧する今の目からはほとんど無意味に思われる無数の死。
 「右」の象徴・靖国も、それらの死を称揚し賛美し祀り上げてはいるが、自分たちに直接つながる者たちの死として、意味づけ消化することができてはいないのだと思われた。

 あの戦争、さらにはそれにつながる日本の近代を、罪悪と汚辱にまみれた歴史だと断罪する、いわゆる左の進歩主義史観と、遊就館の熱い「物語」に代表される右の愛国史観、そのどちらもが自分の正義を主張して他方を虚偽だと非難しあっているのが現状のようだ。その狭間、理性と心情、自己非難と傲慢の間に、ぼくら国民の心は取り残されているように見える。

 しかし必要なのは、近代の歴史と戦争を、あたかも他人の悪事であるかのように非難することではないはずだ。それを声高に喜々としてやっている人たちは、自分が何のために過去を非難しているのか言えるのだろうか。 「悪事」を暴露し非難する自分が「いい人」になりたいからではないか。
 また自己愛的・無批判に歴史を賛美することでももちろんない。それはぼくらの国民的な心情を揺さぶるけれども、複数の視点に配慮する理性の批判には到底耐えられないものだ。

 そうではなく、少なくとも日本近代の歴史がああでなかったら、いま私たちの生きている日本社会は間違いなくこういうかたちでは存在していないし、さきの悲惨な戦争がなかったら、ぼくらひとりひとりが日本人としてこうして生まれ生きていることはありえなかった、という単純な事実から出発しなければならないのではないだろうか。
 あの戦争がなければ私はここにいないのだ。
 それは論証以前の事実のはずだ。つまりどう捉えるにせよ、好むと好まざるとに関わらず、あの時代の歴史と戦争は、ぼくらが個人として集団としてかく存在することの、準備であり条件だったのだ。

 そこには当然ながら光もあれば影もある。そのひとつひとつを、より高い視点から、「私と私たちの物語」として捉え直すこと、つまり自分のアイデンティティとして心に取り戻すことこそが、歴史を学ぶということの意義だと思う。ぼくらの学んできた唯物主義的「モノだけ」のフラットな歴史観は、いかにそこから遠かったことだろう。

 出口からすぐのところに靖国神社の裏口があり、そこに意味ありげに黒塗りのベンツが停まっていた。高位と見える神主さんが来客を見送っているところだ。印象的な四角い顔の来客、あ、あれは、いま政界を騒がしている亀井さんではないか。間違いない。
 どんな表情をしているのか見てやろうと思ったが、後席の窓は真っ黒で何も見えず、黒塗りベンツは高速で走り去っていった。
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# by type1974 | 2005-08-21 20:52 | 戦争

眠い!

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やっとで時間ができて更新しようと思ったが、何を書いたらいいのか疲れアタマで思い浮かばない! とりあえず寝よう!
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# by type1974 | 2005-08-20 23:10