<   2005年 10月 ( 11 )   > この月の画像一覧

ポジティブに生きたい

配車第一日目、今日は土曜なので営業車が少なく、年下の先輩にしっかりと教えてもらえました。生意気だと思っていたが、根はしっかりとした、現代っ子的にいいヤツだ。昭和56年生まれだもんなあ…。

仕事に関し、“楽勝”と心から思いたい。しかしフツーに生きてきた凡夫としては、そういうふうに心底思い信じるためには、やはり経験の裏付けが必要なようです。

でないと、「ソリャ無理だ」という思いが同時に湧いてきてしまう。
自分に語りかける言葉とはようするに自己暗示であり、自分の心に強力に作用する呪文であると、実際にそう思ってみても、それに相反する思いが湧いてきてなかなかそう思い切ることができないんです。そして事実そんなわけないというような行動になってしまう。

そういう現実における経験が、これからの課題であります。
といって、それはよく「リクツじゃない、行動だ」という、気合いと根性の精神主義ともまた違うと思っています。
つまり行動するための前提として、やはり言葉による思いというのは、言葉によって生きる人間である以上、やはり決定的に重要なはずです。あらゆる人間の行動は言葉によって裏付けられているに違いありません。

しかし、たとえば坐禅とかをしてみて、自分の心を落ち着けよう、言葉を消し去ろうとしても、常時多数の思いがほぼ同時に走っているというのは、すぐに自覚できることです。
まさに「心猿意馬」という譬えのとおり、無自覚的な無数の思念のなかに生きていて、それに左右されながら生きているというのが、どうもぼくら人間の心のあり方であるようです。

これは何も深淵げな学者さんの心理学の本などに依らずとも、体験的に誰もがすぐ実感できるという意味で人間の普遍的な真実と言ってもいいと思います。

で、たしかに自分に対して語りかけるセルフトーク、つまり内なる言葉は、あたかも呪文のように心に作用するけれども、それはそうした同時並行した多数の思いがまさにそのように作用し実現してしまっているということにほかなりません。

だから、ちょっとばかりプラスな思いを抱いてみたとしても、「そんな言葉、なんの効果もありゃしない」とか「思っただけじゃどうにもならない」、「どうせだめなんだ」と思っていたら、心は事実そのとおりになってしまう。どうも、意識できるこの心というのは、ひじょうに単純というか、ある意味バカ正直なところがあるように思います。

そういう常時心に走っているセルフトークというのは、心の深いところ、つまり無意識というか深層記憶から湧いてくるもので、これまで重ねてきた経験、抱いてきた思いの履歴によって規定されているもののようです。

だから、これまで弱気に、引っ込みががちに生きてきたとすれば、そういう思いがいつも心の底の方から湧いてくるという状態になっているのはあたりまえのことです。

そういうわけで、ちょっとばかり「俺にはできる!」「楽勝だ!」と思ってみても、これまでの経験とか積み重ねに裏付けられていないために、なかなかそう思いきることができない。気づけばすぐに自分をダメにするようなどうでもいい言葉が巡っているということになっています。

つまり、言葉と経験というかイメージの循環ということが、ここで起こっているように思います。言葉を裏付ける経験と、経験を動機づける言葉の、自覚できないほど深く常時走っている相互作用。
なので、そういう意味で経験は重要なのだと思います。

「きっとできる!」と、心底思うことができるようになりたいものです。


人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-29 20:49 | 心理学

小心翼々

やっとで暇を見つけてこうして書くことができるようになりました。
公営企業なのでひじょうに甘いところも多いのですが、それでもやはり配置転換というのは若干キツイものがあります。
じつに細かーい決まり事が多く、それをアタマに詰め込んで明日に備えねばなりません。

そういうわけで、ここのところあせったり落ち込んだりという体験を波のようにくり返しています。
まあ、これまでの学びの成果がようやく顔を出したようで、回復も早いのでだいじょうぶなのですが。

しかし、現に落ち込んだりテンパってるときには、そんな余裕は吹っ飛んでますね。心配事がアタマの中で増幅する悪循環、もうダメなんじゃないかなどという破滅的な思考、ありありとリアルに感じられます。
ここのところ心理的にけっこう余裕だったので、ひさしぶりにそうした経験をしました。

時間が経って、自分を励ませるようになると、そういうネガティブな心理的経験がまるで幻想のように思われるのですが。まさに自分の心が魔法にでもかかったように、そういう心配に満ちた主観的世界がこの世の真実であるように見えてきてしまいます。

しかしこういうちょっと厳しい状況になってみると、自分が自分の心を適切にコントロールし陶冶していくということを、いかに怠っていたのかに痛く気づかされます。

そのための広く深い方法をこれまで長く学んで来たはずなのに、それをアタマでわかったつもりになって実践を(まったくではないが)おろそかにしてきたツケを、こういうところで痛感させられるというのは、それほど悪いことではないのかもしれません。

それにしても、こういうちょっと雰囲気のギスギスした男所帯に放り込まれると、自分にいかに小心なところがあるか、どうしても眼についてしまします。「小心翼々」という言葉がとてもぴったりです。

こういうところではかなり性格に問題がある人でも、自分のやっていることに確信を持って疑わない人が強い。いやなヤツなのだが、なぜか一目置かれているというのがあって、人間の集まりではそういうことがあるのだなと思わされます。

そういうふうになりたくはないが、しかしやっぱり男と生まれたからには強くありたい。そういう欲求があるからこそ、気弱なところを嫌うということになるのでしょう。

でも長年自分のスタイルになっているある種の気弱さというのは、なかなか抜きがたいものがあるのでしょう。強さと優しさは両立することを期待しつつ、がんばりたいと思わされてしまいます。

まあ、ということは自分を「性格のいい」「やさしい」側に置いて、いやなやつをあっちに見て語っているということですが、そういうことを言い出したらキリがない。
いずれ主観から自由になれるわけではないので、とりあえず自分のちょっと自己愛的な主観を自覚しつつ、しかしそれに対して優しくしてあげたほうがいいのだと思います。

親しい他人に接するように、見ているこの自分が見る対象の自分に対し、やさしく、勇気づけるように接することがつねにできればいいのですが。心理的な自己訓練というのは、まずそこから始まるのではないでしょうか。

それはそうと、こうして書いていると自分のことばかりになると言うのは、おそらく性格の基本的な傾向性である”内向-外向”ということからいえば、まさに顕著な内向性ということになるのでしょう。
例の『完全自殺マニュアル』の歪んだ色眼鏡で見れば、今の世間にうまく乗れない、「イケてない」性格特徴ということになるわけですね。まあ、確かにそういうところもあるが、これはこれで悪くもない。

なにより一人でいてほとんど寂しさを感じないし、集中的な作業に没頭できる。まわりがどう言おうとあまり気にならず適当に合わせていることもできるし、できればずっと本でも読んで生活していたいから金もかからない。

ひたすら外向的であることが、それほどいいことでもないように思われます。そういう人は世間の流れに乗ることができているように見えて、ただただ状況に流されるだけということが多いように見えます。

しかしこれではやはり、バランスが悪い。自覚が内か外かどちらだけ、というのは悪い意味での二分法です。健全で成熟した人格には、どちらの特性も必要になるのだと思います。
そういうわけで、「能動的注意を、外に向けること」が自分のいまの課題です。

ダメなところを「まったくどうしようもない」などと自分の中でぐちゃぐちゃやっていても、多分心理的問題が解決されることはないのだと思われます。

世界の中の、いろいろなしがらみ、言い換えればつながりの中で、生きて生かされている存在として、自分以外の誰か、未来の何かに注意を向けることは、人間の意識の本質にちがいありません。

いろいろで、それに気づかなかったこと、それを怠ってきてしまったことに、否応なく気づかされているこのごろです。そういう意味で、環境の変化というのは、悪いことではけっしてないような気がしてきました。これを乗り越えれば、今よりさらに生きられるようになるに違いないと。

そういう気がほんとうにしてくるのだから、書くということは不思議なものです。

人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-28 19:31 | 落ち込み

とにかく書くこと

突然だが、人間の体というのは思ったより丈夫にできているらしい。
以前は睡眠は8時間以上取らなければ、食事は一日三回とらなければ健康を崩すとか思っていたが、連日3時間くらいの睡眠でもけっこう平気だし、一日二食が習慣になるとこの方が調子がいい。健康に恵まれたということもあるのだろう。
そういえばこんなふうに健康であることに、自分では一円の貢献もしていないどころか、そこから恩恵をうけてばかりだ。空気みたいで普段感じないけど、これはお金に換えられないようなありがたいことであるはず。
それはそうと時間がない!いや、ないのではなく、足りないのだ。これからますます仕事に時間をとられる状況なのは、なんとも残念だ。しかしサラリーマンがそんなことを言っているのは、社会的に言えば「甘い」の一言だろう。
あの学生の頃はくさるほど時間があったが、そういえばいったいなにをやっていたのだっけ? なにか同じようなことをぐるぐると考えて、いや、結局生産的なことは何も考えていなかったような気がする。閉鎖回路の中で、なんとつまらない時間を、あれほどあった時間をむだにしていたのだろうか。そういっているいまは有効に生きているだろうか?
きのう31歳になったが、この調子ではあっという間に人生が終わってしまうだろう。歳をとればとるほど、時間の経つスピードに加速度がついていくというのは主観的にはまちがいなくリアルだ。とりあえずまだ若いと認知される年齢のようだが、もうわずかだろう。どんなふうに歳をとれば後悔することがないだろうか。死ぬときおれはどんなことを考えているだろうか。
職場では当たり障りのない会話でやり過ごす。最悪では全然ないが、めぐまれた環境とはいいがたい気がする。勝手な評価・判断だが、人間の質がささくれている連中が多いようだ。自分もそうなるのだろうか?
夜中に見回っていると営業所に居着いている猫が寄ってくる。ときどき子猫が轢かれるが、こいつはずいぶん大きくなっているのでだいじょうぶだろう。寄ってくるのは餌が欲しいのかと思っていたがそれだけではない様子だ。野良なので汚いが構わず抱き上げてみると、丸くなってゴロゴロいっている。やっぱり哺乳類はこういうのが好きなのだろう。
いいかげんに寝なきゃならないが、時間が惜しくてついつい夜更かしをしてこうして書いている。寝入りばなに自分に言い聞かせる言葉というのは大切なのだという。なんと言い聞かせようか。とにかく、人生ぜったいよくなるにちがいない、と思い込むこと。自分の心に魔法をかけること。
いったい自分は何がやりたいのだろう。それをはっきりさせること。
文句とかグチとか言い訳とか、そういうマイナスにしかならない言葉を自分にかけないこと。
どうでもいいことをしているヒマはない。このままでいるわけにはいかない。
[PR]
by type1974 | 2005-10-24 00:52 | 心理学

俺様、大ピーンチ!!

今回書きますのは、ひたすらグチのみです。ご笑覧いただければ幸いでございます。

いま、けっこうキツイ状況に直面しつつあります。
まず職場の配置転換が急に決定したのですが、それに加えて突然所内でトラブルがありまして、人数のすくない事務職員がさらに欠員一名状態になる見込み。

それが今度回される配車担当の片割れで、なので交代勤務のところ当面自分一人になってしまう状況です。これはヤバイ…

しかも先輩たちも、「失敗して覚えるもんだ」的な感じで、めんどくさそうであまり教えてくれません。
「お前、たいへんだぞ」って、アンタらそりゃ励ましてるつもりなのか??

今後長時間残業がさらに長時間になり、休日はさらに減ってしまうだろう。これではやりたいことができんぞ!嗚呼…!

とにかく細かーい決まり事が数多く、バスの細々したこともダイヤも何もかも、短期間で覚えねばならん…
こんなんで事故が起こったり緊急事態発生のときには迅速に対応できるのだろうか??

ともあれ、泣き言をいっているヒマがあったら、ちょっとは仕事を覚えねば。
これはまさに気合いとド根性の世界。

いろいろここではカッコつけて書いてきたが、それがまさに現実で試されるというわけで。
うーむ、面白くなってきた!と心から言いたいものだ…

と、こんな夜中に書いているのは、まさに文字通りグチなのでございます。

ま、とりあえず死なないしクビにはならないし、残業の替わりに時間外手当盛りだくさんで、わりと甘いところもある。

だいじょうぶ、耐えられるさ~(涙)


↓こんなグチにも、励ましのワンクリック、お有難うございます…
人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-22 04:30 | バス

『完全自殺マニュアル』完全批判12

いじめの構造


『完全自殺マニュアル』が暗に発している、“いじめる側からのメッセージ”を暴き出すにあたり、少し長くなるが、ここで“いじめる側”の心理を考えてみたい。

柔軟な自信とそれに裏付けられた謙虚さをもって自然に振舞うことができる人間がいじめに走ることは、たぶんけっしてない。
そういう立場に立った方や、いじめの状況に居合わせた方はよくご存知と思うが、いじめる側の人間も、じつは根深い劣等感を抱えているという事実は、おそらく普遍的だと思う。

ここでいう劣等感とは、本書の著者が強調しているような、暗さとか人間関係の下手さとか能率が悪い、などということと単純イコールなのではない。

そういうふうに何をもって劣等-優越と見るかにかかわらず、社会(外部)の側が要請する価値のモノサシを自分にあてはめて、それを基準に自分が他人より劣った存在だと計る心性こそが、劣等感にほかならない。
成績、地位、知識、容姿、性格特性、運動技能…と挙げていけばきりがない中で、たとえば“明るい/暗い”というのは特殊な一つの価値軸にすぎないことがわかる。

そのように置かれた状況によっていろいろなモノサシがありうるわけだが、しかしこの“外から押し付けられたモノサシを受け容れて自他の優劣を計る”という構造は、実にあらゆる劣等感、そしてその裏返しの優越感に共通していると思う。

そういう社会があてがうモノサシを無自覚に受け容れ続け自分に当てはめていく限り、ありのままの自分を素直に認めて揺らぐことのない自己信頼=自信を獲得することなどできないのは、ちょっと考えてみれば当然だ。

なぜならそういうモノサシを自分に当てはめる限り、どこまでいっても誰かとの比較を意識させられ、比較すれば常に誰かよりも劣っている自分を意識せざるをえないのだから。

仮にちょっとばかり優越してもそれは必ず相対的なものにすぎず、またすぐに他人に追いつかれるもので、決してどこまでも安心できはしない。
そのように優越感には常に劣等感が表裏一体のものとしてとりついている。
それが無条件に自分を信頼するという意味での自然な自信ではないのは明らかだと思う。

社会からのモノサシを自分に当てはめて不安定に優越感と劣等感の間を行ったり来たりするような、誰も幸せにならないこんな心のあり方を、いったいぼくらの世代はどこで身につけてしまったのだろうか?

それは、記憶力、性格特性、運動能力、社交性、人間関係、個性・自発性(そんなものまで比較優劣の対象だったのだ)、等々という人間のじつにさまざまな側面を、集団の中で比較し優劣を付け成績評価を下す、競争社会の準備機関である学校という特殊な環境の圧力によって、ぼくらの世代のたぶんほとんどが、いわば骨の髄まで条件付けられてきたものなのだと思う。

だからぼくらの多くには、“ありのままの自分を認める”なんていう言葉は、安っぽいセールストーク以上には聞こえない。それは他人と比較して目だった長所も美点もない、醜くてつまらないところばかりが目につく自分を、みじめなままありのままに受け容れろということになってしまうからだ。
比較をしてしまうと、ありのままの自分とはつねに誰かに劣っており、したがって大した価値なんてないように見えてきてしまうのである。

じつは単に方法を知らなかっただけで、そういう外からあてがわれた価値のモノサシを外して自分を絶対評価してやり、揺るぎない自信を確立することは、意外に簡単なことのようだ(前掲書『生きる自信の心理学』岡野守也著、参照)。
しかしそういうことは、ぼくらが教育を受ける過程で耳にしたことは多分まったくなかった。

ぼくらは社会や学校の要請するいくつかのモノサシに沿うことこそが正しいと教え込まれてきたために、つねにアイツより上か下かと考えるように、あまりにも条件付けられしまっている。
そのなかで上に下に、右に左に、自分の価値は浮動し安定していることができない。

ぼくらが自然で健康な自信=自己信頼をなかなか身につけることができないでいるのは、たぶんそういうわけなのだと思う。


では、いじめが起こるような学校の教室での価値のモノサシとは、一体何だっただろうか?

ぼくらの通過してきた学校は、“明るく・仲良く・元気よく”というふうな空疎なスローガンを表のプログラムとして建前上運営されていながら、実際には競争社会に適応できる人間を大量生産し、それに乗れない人間を矯正することを公然の裏プログラムとした、産業主義の準備・養成機関であった。

これはそこに携わる人の善意や教育への熱意を皮肉るものではなく、単に全体の文化状況がそうなっていて、その一単位である学校もそのなかにはめ込まれたものであると言っているにすぎない。

そして学校の建前のモットー“明るく・仲良く・元気よく”とは、そんな社会における適応的な人格の特性にほかならない。
そういう無内容ではあるけれども自然の健やかさへの理想が込められた“期待される人間像”は、しかし競争へ競争へと方向付ける学校的価値観のギスギスした圧力によって、グロテスクに変形される。

そんなふうに目的も方向性なくただ成績によって上下関係をつねに意識させられる一方、適切な人間関係の持ち方だとか、仲間集団をどのように健康なかたちで形成するかというような、社会を担う者にとって本質的に必要なスキルは、すくなくともカリキュラムとして教えられることはなかった。

適切な文化的枠組みを与えられていないそういう未成熟な集団にあって、価値あるように見えるものとは、商業主義一辺倒でカネ勘定以外社会的責任などということはたぶん何も考えていない巨大メディアが発する情報の刺激であり、それらが形作る“社会とはようするにこんなもんだ”という総体としてのメッセージである。

たとえば高視聴率を獲得しているという民放テレビのひたすら“お笑い”を追求するいわゆるバラエティ番組に、そういう子供たちが受け取るメッセージが典型的に見て取れるであろう。
それらはあたかも、どんなに作られた白々しいものであっても、痙攣したような強迫的な“明るい”笑い声がないと、一秒たりとも場を保つことができないといったふうではないだろうか。

そんなレベルのものが、人格形成過程の子供が受け取る人間関係のモデルとなるのである。
情報はただ受け取られるだけでなく、受け手の心そのものとなり、行動を規定していくということが、そういうメディアの担い手は見えていない、というか見えていないふりをしているのではないか。

であるとすれば、さきの学校の建前のうち、“明るく”が、ひたすら外向的であることや会話をしらけさせずに回すことに、“仲良く”が、なるべくフラットに人間関係を拡大すること、そういう集団から取りこぼされることを恐れて同調に汲々とすることに、“元気よく”が、明るさのヒエラルキーの上位に立って下位の者を抑圧し、取りこぼされた人間を排除するようなことに、簡単にすり替わってしまうもそれほど怪しむべきことではない。

そして一日八時間以上、毎日毎日詰め込まれて逃げ場がない学校の、無目的でルールも役割もない教室的な人間関係の中で生き延びるためには、たとえそんなふうに歪なモノサシではあっても、それに沿うよう自分を当てはめて生きることは、適応のためにはとても重要となる。
モノサシに沿うことができず雰囲気にとけ込めない人間は、寛容性の低い集団ではすぐに排除の憂き目に遭うのが常だ。

そういう息が詰まるような、“明るさ”への同調圧力が横溢する教室の雰囲気の中で、内向的に暗く一人でいたりするのが危険なのはいうまでもない。そんな集団に適応するためには“明るさ”を装わなければならない。擬態して、周囲の色に溶け込むのである。

さもないと、人間関係のヒエラルキーの底辺に貶められた存在にされるか、悪くするとそこからの排除、つまりいじめの標的にされてしまうだろう。そうならないためにはハイでいなければならない。内心つねに張りつめていなければならないのである。“テンション高い”なんていう言葉を、最近よくそんな文脈で聞いたりしないだろうか?

これは生徒間だけの話に限らない。子供を指導すべき学校が、そうした歪んだ(こういってよければ誤った)方向づけを修正して、適切な価値基準を教えることをほとんど怠っているように見えるからだ。むしろ学校自体が全体の文化の一単位として、そういう息苦しい風潮をはびこらせている温床となっている。

これは自分の体験と主観から語っているところが大きいので、現在の学校の状況にどこまで一般化できるかはよくわからないが、しかしすくなくとも、そういう歪んだ神経症的な価値観がこの社会のいたるところに瀰漫しているのは、あまりにも明らかだと思う。


このように、学校の教室における人間関係の価値軸とは、とりもなおさず明るく・外向的・社交的であるかどうかということである。したがって内向的で人間関係を結ぶのが下手だったりすると、それは劣等にほかならないのである。

また、さきに見た社会的モノサシによる相対的な自己評価それ自体がつねに揺らぐものであったように、教室的な同調圧力に一見適応できているかに見える者もまた、相対的にアイツに較べてダメだとか、いつ自分が転落するかとか、心は揺れ動いて安心するいとまがない。優越感は常に劣等感の裏返しである。

自分の本音が暗く内向的で、そんな息苦しい雰囲気についていけないものであったとしても、それは強い劣等感とともに恥ずべきものとして感じられ、素直に自分のものとしては認めがたい。そんなものがあると認めると立場自体がやばくなるのだ。

そういうふうな、つねに“お笑い”がないと間を取り繕うことさえむずかしいような空虚な人間関係にあって、自分の内に抱えた劣等感をないものにし、集団から排除されることがないようにするためには、自分自身の劣等感をより劣等に見える者に投影して、それを貶めて排除おくのがいちばん手っ取り早い。

こういう歪に変形した“明るさ”を強要する雰囲気と、それにもとづく暴力的な同調-排除の圧力のなかで、他人を蹴落としてちょっとした優越感を感じ安心を得ようというのが、ようするに学校という特殊な閉鎖環境での、いじめの心理的な構造であると思う。

                                            (以下、次回)


人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-19 03:03 | 自殺

夜中にちょっと逃避

ずいぶん夜遅くなってしまったが、明日からまた長い泊まり仕事、ちょっとそこから逃避、という気分でこうして書いてみる。

日記を書くなどというのは自己愛的でムダな行為とこれまで思ってきたけれども、あえて文字化することで、自分の中のもやもやした思いがはっきり形をとってまとまりがついてくるらしく、書いてきて、言葉というのは心にとって単なる表現だけではないのだなと思われた。

しかも文字化した言葉それ自体が自分に対するメッセージとして効いてくるという面も大きいらしい。

今年四月からバス営業所に配属になり、三〇にもなって新人同様の扱いを受ける中で(それはそれで悪くもないようだ)収納関係の仕事にようやくなれてきたと思ったら、諸事情があって今度は配車担当となってしまった。

いろいろ一から覚えなければならない。
細かい約束事ことが多い上に、ダイヤに迫られた運行関係にも指示を出さなければならない。
これからちょっと緊張を強いられながら仕事を覚えていくことになる。

とにかくむさくるしい男ばかりの環境。
優しさの比較的足りない職場だが、だいたい世間の職場とはそんなものだろう。

年下の先輩やおっかない係長のもとで、ちょっとばかり自己満足をへこまされながら、時間とともに新しい仕事にも慣れていくのだろうが、やはりちょっと、というかかなり不安もある。いや、心配と言い換えよう。セルフ・トークとは、単なる表現ではないのだ。

でもいろいろ変化があってこそ人生は充実するという。安定を求める気持ちも相当大きいのだが、そこを揺るがされるのは悪いことではないはずだ。

自分を信頼する、ということを勉強してきたつもりだが、いざそういう場面に突入してみると、信頼しかねる部分も多々あったりする。

現状、かなり気が小さい上に、他人に強く言えなかったり、焦ったり緊張が強かったり、細かいケアレス・ミスも多く、仕事を通じて身につけていくことはとても多い。

しかしとりあえず、自己非難などムダなことをして自分を落ち込ませることはやめたい。

時間を取って、心の給油をすること。
元気の回復についてはこれまで学んできたことで十分だ。
落ち着いて仕事ができればと思うけど、戸惑う思いもとりあえずありということ。

いずれに腐っているヒマはない。
一人でいるといろいろ考えがぐるぐる巡ってあまり建設的でなかったりする。

そんなときに仲間がいて、励ましてくれることはとても嬉しい。
長くつきあいの狭い一人暮らしをしてきたけど、やはりそういう関係が大切なのだと気づかされる。

人間は一人で生きられるものではない。
習慣になったライフスタイルというのは根強いけれども、徐々に変われればと思う。



人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-17 02:43 | 落ち込み

『完全自殺マニュアル』完全批判11

著者の抱く「真理」


 この『完全自殺マニュアル』の著者が、社会不適応な人間の不幸と絶望、とりわけいじめを受けて自殺した人間の生き様・死に様に、特殊な関心を抱いているのは本文を読む限り間違いない。

 それは死んだ人間の内面にほとんど触れることなく外面的な自殺方法の“情報提供”に終始している本書が、そういう自殺者の場合に限って異例なコメントを発していることから読みとることができる。

 それにしても、著者・鶴見氏の、これら社会不適応な人間の死への執着は、いったい何なのだろうか? そしていじめ自殺のエピソードに示された、異例とも言える彼の関心は何を意味するのだろうか?

 とりわけ彼にとっていじめは、単に他人事であるだけでなく、本書の中でくり返し自分なりの人生観を表明して取り上げるに足る、とても興味深い他人事だったようだ。
 これらを、著者自らがどのような立場に立ってこの本を書いたかを推測する足がかりとしたい。

 人は価値観からくる偏向抜きで客観的に真実を語っているつもりになりがちだが、実際には自分なりのものの見方・事実の切り取り方から、どこまでも自由になれるものではない。
 そして忘れたつもりの自分の足場を衝かれると、往々にして強烈な反応を示したりしがちだ。

 では彼は自分でも無自覚に(もしかしたら自覚的に)どのような立場に立ち、そこから何を見ようとしているだろうか。

 漫画家・山田花子の例に見られるように、この著者は、いじめを受けるような暗くて内向的な人間は、この社会に生きるのにそもそも適さないのだと明言している。
 それはつまり、そういう人間は生来劣った存在であり、そもそも生きるに値しない生命であるという決めつけ・価値付けにほかならない。

 そういう言葉の前に「この日本社会では」「クラスという奇妙な集団で」などと、一見留保を付けているようであるが、しかしまさにそのような産業社会の競争主義や教室的な価値観をあまりにも真に受けているのがこの著者自身であったことは、すでに明らかにしたとおりだ。

 つまり“この社会”や“息苦しい教室”がそういう人々を生きるに値しないと見なすとは、彼自身が自分の視界を覆った色メガネをとおしてそう見なしている、ということにほかならない。

 しかも“生きる上で割を食うことがある”から“劣った人間である”さらには“生きるのに適さないので自殺が当然“の間には、極端な論理の飛躍があるのに、著者はまったく無頓着である。

 その間にはきわめて大きな隔たりがあるはずなのだが、それが存在しないことになってしまっているこの思考のあまりの短絡は、いったい何なのだろうか? 

 それを以下に明らかにしていきたい。


 確かにこのますますギスギスしつつある産業主義・日本社会の、たとえば明るくノリがよくなければならないような雰囲気がある教室で、そういうふうな内向的で能率的に動けない人間が健やかに生きていくことが難しいという状況があるのは事実だろう。

 ところがそこから一足飛びに、いじめられるのはとりもなおさず劣等な人間(「いじめられるヤツ」)であり、そういう必然な不幸を生来背負った劣った存在は自分で死を選んで然るべきだと、なぜか断定してしまっているのである。
 念入りにオブラートに包んではいるが、それらの言葉が指し示していることを読み取れば、ようするにそういうことになる。

 もちろんそういう状況に陥った場合に、他に採るべき道はいくらでも存在する。
状況から退避すること、学校に行かないこと、人間的に成熟した大人の第三者に間に入ってもらうこと、人間関係を調整すること、本人が心理的に拒否できる能力を身につけること、等々。

 しかしこの著者にとっては、競争主義的・学校的な価値の枠組みを外れた選択をすることなど、最初からありえないらしい。

 つまり、こうした事例を取り上げることで、適者生存の競争社会で生きるに適さない人間は自分を廃棄処分にして然るべきだ、という彼自身のテーマを語りたいのだろう。
 要するに彼は、この社会とはきわめて単純な弱肉強食の構造にほかならないと言いたいのである。

 そうして彼は、「自殺とは…自然淘汰の一手段である」という、19世紀、つまり前々世紀(!)の自殺研究家の言葉をもっともらしく引いて、それは「間違いなく当たっている」と、もはや前提自体があやしい断定をする。

 二世紀も前の社会ダーウィニズムの言葉が彼にとって疑いのない真理というわけである。そんな科学的根拠のもはや疑わしい理論が、かつて自民族の人種的優越を正当化するナチスのお気に入りだったのは、記憶にとどめておいたほうがよいだろう。

 著者の中では、いじめという学校的な特殊な現象は、かつてダーウィンがイメージした素朴な自然の掟の露骨な縮図であるらしい。

 この本のいたるところに見て取れるように、著者自身がそういう弱肉強食・適者生存的な競争主義の価値観にひどく囚われている。
 そしてその記述に即して考えれば、彼はそういう価値尺度から“弱者”を設定し、明らかに自分自身を強者の側に置いて、その運命について発言しているのである。


 しかもこの著者にきわめて特徴的なのは、その価値軸がここでも”強い=明るく適応的/弱い=暗く不適応的”という単純図式であることだ。

 しかも暗く内向的、即劣等という価値付けの根拠が説明されることはない。それは著者にとっては説明するまでもない自明のことであるらしい。

 前に取り上げた『人格改造』が、暗くて内向的な自分が明るく外向的に生まれ変わる、という方向性への著者自身の強烈なこだわりに貫かれていたことを思い出そう。
 そこから、彼がなぜこの『完全自殺』で、ことさらにいじめにかかわるエピソードを取り上げているのかが見えてくる。

 つまり、本書のいじめ自殺に関するこだわりとは、彼自身が学校的価値観にいまだに囚われていることを雄弁に物語るものにほかならない。
 そして“明るい/暗い”というような二分法的な価値軸とは、以下に述べていくように、まさにそういう学校に詰め込まれている生徒らにとって、空気化・自明化しているものなのであった。

 そのような自らのうちにある弱肉強食の学校的価値観・教室的状況の図式において、著者はある立場を取ろうとしているのが、この本の軽々しい記述からあからさまに見て取ることができるのである。

 その立場とは、教室でのいじめる側のそれと同じものである。以下、そのことを掘り下げていきたい。


人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-15 12:54 | 自殺

まったくもってどうでもいい話

ほんとうにどうでもいいのですが、最近“食玩”というヤツにはまっています。
ご存知でしょうか? コンビニとかで売っているちまちました模型とか、アレですよ。

それもわたくしの場合は、なぜか軍事系のものしか興味が行きません。

とくに最近“イイね”と思ったのが、「ワールドタンクミュージアム」第七弾、“バルジの戦い”シリーズ。今回シリーズ初のⅣ号駆逐戦車“ラング”を当てるために、すでに何箱買ったことか。
安くて(二五〇円くらい)気にならないと思っていたら結構な出費になってしまう。しかもお目当てはいまだに手に入れられていない。

この小さい模型どもも回を重ねるごとにいわば進化をしているようで、とりわけ今回で五台目となるⅥ号戦車“パンター”G型の造形の進化ぶりすばらしい。マズルブレーキに本当に穴が開いてるよ、針の穴みたい…。

こうしてまたひと箱、買ってしまうのだろう。

それにしてもこういうのが好きな人間の心のツボを押さえた売り手の戦略はたいしたものだ。作り手の愛情が見える、といいたいところだが、多分中国あたりの安い労働力のみなさんがジャパニーズ資本にこき使われているのでありましょう。
物語もクソもあったものではない。

こんな無意味な商品大量につくって、環境破壊もいいところだよとか思うが、それを買っている自分はその際視野には入っていない。

それからまだサンクスとかで売っている「世界の航空機」シリーズも、これは食玩ではない上にちょっとだけ高いんだけど、これもこのスケール(1/144)とは思えない出色のでき。
造形の冴えもさることながら、プラモだと困難な迷彩塗装が手のひらスケールに見事に再現されているのがすばらしい。

これも、Do335“プファイル”というのが欲しくてまだ手に入っていない。もうV2号は四つ目なのに。このシリーズでは、フォッケウルフFw190D9、とくにいいです。
これはシリーズ1とのことなので、シリーズ2が出ないか楽しみ。つぎは日本軍機かな。

と、こうして気づくのが、上記の兵器の数々はすべて独逸軍のものであること。
ちょっと趣味が悪いなと思うのだが、なぜかカッコヨク見えてしまう。しかもこういうのの売れ筋はおおむね独逸ものと相場が決まっているらしい。いったいなぜなのか?

ガンダムでも連邦よりジオンのほうが人気があるのと同じだろうか? 敵役のほうがカッコよく見えるというやつで。そういえばガンダムものの食玩も異様に多い。

しかしいまコンビニでこういうのがふつうに売っているってのは、ある意味スゴイ状況だ。そんなに売れるほどこういうののマニアがいるとは、ちょっと思えないのだが…。いったいどこに隠れているのか?

さて、もう31歳(あとちょっとだ!)になる上に、心理的に成長してちょっとは世のためひとのため、大ブロシキでこの宇宙の進化に役に立ちたいとか最近思っている者としては、もういいかげんこういう趣味はやめたいと思っているのだけど、なぜかやめられない。
今日だってほんとうは時間がないのに!!

本屋に行けばなぜかそういう雑誌とかの書棚にフラフラと行ってしまう。もっと高尚な本が読みたいのにさ。ケン・ウィルバーとか。なのに『航空ファン』とか『PANZER』とかに見入ってしまう。そうして書店に行くたびに軽い自己嫌悪に陥るのだ。

タバコをやめようと思ってやめられないのと同じようなものだろうか。

おそらく心理的に未熟な部分がこういうところに表れてしまうのでしょうね。
おそらく精神的に“男”になりたいのだろう。

そういえば本屋のそういう棚に集まってるのはだいたいそんな感じの、似たようなヤツばっかりだ。
しかも流行の“電車男”系の清潔そうなお坊ちゃんという感じの連中と違って、戦車男系のそういうヤツらはひどくもさったい。それはとうぜん自分も含めてということになるわけだ。うわぁやだねやだね。

そういうわけで、いずれこれからは脱却したく、しかしコンビニでまた買ってしまうであろう、孤独な仕事明けの一日なのでした。

いったい何を書いてるんだか…、しかし書きたかったのでまあよかろう。よかよか。


人気blogランキングへ
↑こんなのでもワンクリック、してもらっていいのだろうか??
e0033919_17522324.jpg
[PR]
by type1974 | 2005-10-13 17:33 | 戦車

『完全自殺マニュアル』完全批判(10)

人気blogランキングへ


死にゆく者への目線


 ここでは、自殺を刺激的な情報として語っている本書が、自殺した人間をどのように語っているかを見ていこう。
 見てきたように、この本は自殺の方法論については多くの紙幅を割きながら、それを実行した人間の内面にはほとんど踏み込んでいないのだった。

 しかしその中で、著者が人生観めいた感想と自殺者に対する共感らしきことを述べている異例の箇所が、いくつかあるのが目を引く。
 とりわけ漫画家・山田花子の死についてのエピソードをはじめ、いじめによる自殺に関してそういったコメントが目立つことから、著者の関心がどのあたりにあるかをうかがうことができよう。

 山田花子というと漫画家はひじょうに特殊な自分の世界を描いた作品で一部に知られている(最近は同名の芸人のほうが有名になっているが)。
 実を言えば絵はたいへんまずいし、ストーリーはあってないようなもので、これをそもそも読む対象としての漫画作品ということができるのかは疑問があるところだ。
 しかし、同じような心の傾向を持った人間には、その作品は痛いくらい“わかるなあ”と思わされるものである。

 その傾向とは対人恐怖というきつい心の歪みのことだ。
 彼女はそのひどい症状に悩まされて、社会との接点を見いだせないまま、結局24歳で飛び降り自殺をして果てた(92年)。

 彼女は死ぬ直前まで、自分が人との関係を結べないことを文字通り死ぬほど恥じつつ、これだけが自分の世界なのだというふうに、執拗に一貫して自分の対人恐怖をテーマに描き続けた。
 その醜いまでの自己暴露は、対人恐怖の人の見ている世界を窺うにあたって、ほんとうに希有なものだと思う。彼女はそれをごまかすことができなかったようだ。

 例えば太宰治の『人間失格』は、そういう対人恐怖の主観的世界を描いた文学作品とされるが、そこには対人恐怖という心の歪みに距離を置き、物語として美化する余裕が感じられて、ひどく甘ったるい印象が拭い切れない。
 文学人として自己確立し社会的関係を結ぶことができた彼の病とは、おそらく対人恐怖と別種のものだっただろう。

 文学的にはもちろん較べるべくもないのだろうが、こと対人恐怖という点において、自己美化とかナルシシズムの入り込む余地がまったくない山田花子の描写のほうが、はるかにリアリティと実感が込められていて、迫力がある。

 ほぼすべての作品に共通しているのは、人との接触にひどく取り越し苦労し、かといって人との接触を断つことができず、その中間でどうふるまっていいのか途方に暮れている姿だ。

 そうして、あまりにも自意識過剰で人と関係を作ることができず、そのことをひどく恥じ、自然にふるまうことができず友達を作れない自分はダメ人間なのだと、徹底的に自虐し続ける。
 その常に変わらないテーマは結局“友達がいない”ということだったと思う。
 そして、友達を作って自然に生きているすばらしい他人と、それができないまったく劣った自分、という自己確認が、作品の主要動機に見える。

 一言でいって、ひどく痛々しい。そんなに足りないところを凝視ばかりせずに、視点を外して自分を楽にしてやればいいのにと思われるが、若い彼女にはそんな余裕がなかっただろう。
 学校を出てみると、友達なんかいなくても、生きるのにはぜんぜんOKだということに気づくのだが。

 彼女がそのことばかり気にしている様は一見極端で異様だが、しかし友達がいないと自分の存在自体がやばくなってしまう教室的状況というのは、わかる方も多いだろう。
 “友達がいない”などということは、結構な歳になっても口にするのが難しかったりする。

 学校の教室で、やることのない休み時間、一人でいるような人間は、ほとんど“アンタッチャブル”扱いではなかっただろうか? 
 教室には、無内容な“明るさ”を基準とする人間関係のヒエラルキーがたしかに存在した。そういう事情は今も変わっていないのだろうか?

 彼女の場合輪をかけてきつかっただろうと思われるのは、そういう教室でかなり手ひどいいじめを受け続けていたらしいことだ。そういうミもフタもないいじめの様子も彼女の漫画に繰り返し登場する。
 『完全自殺』の記述を信じる限りは、卒業後も彼女はそういう人間関係のパターンをくり返し、まともな社会生活を送ることができない中で、自殺に到るまでそういう自己確認的な漫画を書き続けたらしい。

 みなと同じように人と関係を結びたい…自分にはそれができない…人並みに人間関係を結ばなければならない!…でもできっこない!というような、常に同じパターンの悪循環のくり返しにひどく囚われているのを、読者はその漫画から、いやというほど窺うことができるだろう。

 いろいろな要因はあるのだろうけれども、彼女がはまりこんでしまった悪循環とは、おそらくそういう教室的な状況でいじめをうけながら、毎日毎日、いやというほど直面させられて身についてしまったものなのだろうと推測される。

 山田花子作品については、この『完全自殺』でその存在を知って、さっそく買って読んだと記憶している。そしてそのつらさの強弱の度合いはともあれ、どこまでいっても続く醜い堂々巡りの暴露に、これはまさに自分のことが描いてあると思ったものだ。
 いたるところが自分にも思い当たって痛いような感じがする一方、自分と同じ種類の人間がいるのだと確認できたような気がした(といって安心は全然できなかったが)。

 そういう彼女の死のストーリーについて、本書は異例の4ページを割いて、人生の教訓めいたコメントともに紹介している。他に同じような扱いを受けている自殺者の記事がないことから、彼女のそういう生き様・死に様は著者の関心を強く引いたことが窺われる。
 それでは、本書はその彼女の死をどのように扱っているだろうか。

 「彼女の一生は他人の視線に怯え続けた人生だった…彼女の苦悩には、計り知れないものがある」
 そういったセリフで、一見彼女の苦悩に寄り添っているように見えるが、よく読むとむしろ共感とは別種の冷たい感情がそこにはたらいているのを、読者は見て取ることができるだろう。

 そのコメントを要約すれば、「彼女は生まれながらに暗く内向的で、常にいじめられ続けてきた。そういう弱者としての運命を抱えた彼女が自殺を選んだのは正しい選択であった。それがこの世の必然なのだ」ということになるだろう。
 そして作品の中の絶望の言葉を引いて(「イヤなら自殺しちまえ」)、そういう“諦念”こそが人生の真実なのだと述べる。

 しかし著者が彼女の対人恐怖を理解しているようにはまったく見えない。あくまで他人事にすぎないとしか読めないのだ。
 そこには、弱い人間は生来そういうふうにできていて、そして人間は終生変わり得ないのだという、先の本で見たとても狭くて浅い認識がある。

 すなわち、彼女の描く症状の部分だけを見て、そこから来る認識の歪みと、惨めさと裏腹な強がりだけを、彼女という人間の本質だと捉えている。そういう実体としての病そのものである彼女は、われわれ正常人とは別種であり、この社会では生きるに値しないと言わんばかりだ。

 しかしそうしたこの病の奇異な様は、じつは表面に現れたものにすぎない。
 そういう対人恐怖の表面上に表れた人間関係の不能の背後に、他者との関わりを痛切に求める本音があるのに、この興味本位の観察者は気づくことがない。

 見る眼があれば、彼女の作品のどのページにも背後にそういう切望があることをはっきり読みとれるのだが、このシニカルな著者がそれに気づくことができないのは、考えてみれば当然のことであっただろう。

 そういう人とのつながりを切望する本音と、裏腹な対人能力への強い羞恥心、関係の中で心理的なまとまりを保てない人格の未成熟さ、親しい関係を求めながらもそれができない自分を反省しすぎて自己非難してしまう過剰な自意識、それらこの病の中核にあるものに、この皮相な観察者はまったく疎い。

 ここに、病気がその人自身の本質であるかのような転倒した捉え方が見られる。それは、心の病とは生来のものでそれ自体としてずっと変わることがないという、無前提の実体視に他ならない。
 さきの『人格改造』の人間=機械観が、ここでも暗黙の内に前提とされている。壊れた機械は修理不能、というわけだ。

 ここでは心の回復ということにも、それを追求する臨床心理学・心理療法についても、一言も言及されていないことに注意しよう。
 症状のレベルによって困難はあるだろうし、現在の日本に有効な社会資源が少ないという事情もあるが、心の病は回復が可能である。

 にもかかわらず、この著者にはそのことが見えていない。いや、見ようとしていないというべきか。
 結局、“人は自分の心をどうすることもできない”という自分の間尺に合わせて、“観察対象”を自分の見たいようにみているにすぎないのだ。

 このように、明らかに著者にとっては、いじめも対人恐怖も視線恐怖も、自分に関わるものではなくあくまで他人事である。
 そういうふうに誰か自分とは関係のない弱い人間の特異なストーリーとして、クールに興味本位に観察して語っていることに、読者は注意する必要がある。

 そしてその死を、自分が社会から無批判に取り入れた価値観(暗く内向的=劣等・無価値)にそのまま当て嵌め、弱者の運命と必然の自殺という、短絡的で安易なストーリーに組み立てている。

 その背後に著者自身のどのような意図があったのか、次に見ていきたいと思う。


人気blogランキングへ
[PR]
by type1974 | 2005-10-07 14:36 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(9)

人気blogランキングへ


彼自身の理由


 さて、このように著者自身が本書のメッセージを欺いて、なぜか生きのびているのである。

 だとすれば、著者がいまだ「勝手に」生きているのは、本書で彼が語っていない、というか当然語ることのできなかった、暗黙の理由なり意味感覚があるからに違いない。

 つまり、「この生きるに値しない世にあって自殺はとてもポジティブな行為で、しかもとても簡単だ」ということを語りながら、自殺することなく人生を続行するというとても器用な綱渡りができるためには、“語ってみせたクールなタテマエ”と“生きていられる実態というリアルなホンネ”、すなわち著者なりの人生の二重基準が存在するとしか考えられない。

 そして、当然ながらそのタテマエとは自分に関係のない他人に限って適用される、というわけだ。

 これは推測だが、曲がりなりにもライターとして大ヒットを当てると、後続の著作を出して安定収入を得ることができ、自分の名前が世間に流通し、マスコミで発言する機会が出てきたりする。そしてそんな彼の言葉を真に受けてしまうような信奉者がそれなりに出てきたりすると、人間の本来自己愛的な傾向の強い深層自我は大いに刺激されて肥大するのではないかと思われる。

 そしてそこに、彼が否定してみせた“生きる意味”を感じたりしているのではないだろうか?

 これには根拠がある。
 それはとりわけ、『完全自殺』から三年後に刊行された『人格改造』のほうに、はるかに自己言及的で自己愛的と読める記述が多く見られることにある。
 前者においては一見観察者に徹しきった視点をとって自分を打ち出すことを抑圧していたのに比べて、後者では著者はずっと主体的・能動的で、“自分を癒す”ということが主眼になっているのだ。

 すなわち、『完全自殺』が著者の抱えている人生観にかかわるメッセージの表明(自殺の誘いはその手段)だったとすれば、『人格改造』は著者自身を表現することが目的(“改造”のテクニックはその手段)となっていると読める。

 もっぱら自分自身を表現しようという意図とは、この場合歪んだ自己愛の営みに他ならない。そのような表現に意味を感じるなどということは、彼の当初の言葉を額面通り受け取る限り、ありえないはずなのだから。

 穿った読みをすれば、この間の『完全自殺』の“大成功”に気をよくして、自分の語る言葉にある種の自信を得て、後続の著作ではより自分の思いを打ち出してきている、という印象がある。
 そしてそこでは、見てきたように、どれほど否定的で悲しいまでにフラットなものであったにせよ、彼なりの生きる根拠を掴もうとして必死なのであった。


 よくは知らないし、あまり知りたくもないのだが、どうも『完全自殺マニュアル』の著者・鶴見済氏はまだどこかに生存していて、何か著作活動などもしているらしい。
 ここに滑稽だが笑えない、根本的な矛盾と欺瞞がある。

 まるで、資本主義の転覆をアジる痛烈な演説をぶった元学生活動家が今や有名一流企業の管理職をやっているような、若者に“大義のため”と特攻での死を命じた司令官が戦後天寿を全うしたような、最終解脱と世界の救済を標榜して無差別テロを実行した教祖サマと幹部らが法廷で醜態を晒しているような、それと同じ虚脱感。
 語った言葉のすべてがウソだったことを自らの生き様で証明する、卑怯だけど腹を立てるのもむなしく感じられてしまう、あまりに人間くさい人物たち。

 いや、そもそもこの著者の小さな物語は最初から虚脱感と虚偽に満ちているので、そういう皮肉も成り立たないのであった。

 むろん自分の考え違いに殉じて死ぬのは悲しくてロマンティックな愚か者だ。しかしそれでもいくばくか、自分が語った言葉への責任と誠意とが感じられるというものだろう。
 ぼくらが映画や小説の結末などで目にするそういうタイプの死は、だからこそドラマになり、共感や感動をそそることになっている。

 それどころか、この国には“自決”という観念と風習が、意外に最近まで存在した。
 言葉で交わした信義を個人としての自分の生命よりも重んじるその生き様は、そういう時代からは価値的にもはや遠いところにきてしまっているぼくらには到底真似しがたいものだけれども、それでもある種の高潔さを実感することはできる。

 そう感じさせるのは、彼らが保持していた信仰やイデオロギーの内容自体ではない。
 そうではなく、彼らが小さな自己保身や執着を捨て、自分の全心身を挙げてその“大きな思い”そのものとして生き、いのちを賭けたからだろう。それが「言行一致」という言葉の本来の意味だと思われる。

 それに較べるべくもないのだが、「生きるなんてどうせくだらない」「もう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」と吹聴しながら、『完全自殺』刊行後10年以上を生きおおせ、社会を拒絶するポーズをとりながらその社会のある種の波にしっかりと乗り、判断能力の未熟な若者や自殺志願者および実際の自殺者から今も多額の印税収入を吸い上げているライター・鶴見済氏の存在は、おそらく意識的と思われるその自己欺瞞のゆえに、限りなくインチキくさい。

 「恥を知らないのか」とぶつけても、たぶんむなしく響くだけだ。
 先に見たように、彼は自分の言葉など最初から全部ウソだとどこまでも逃げ続け、自分が内に抱え込んでいる空虚に向かってかぎりなく退却していくだけだろうから。

 責任からの逃避と自己解体による退行を人生の真理と考える人間には、恥という概念はそもそも存在しないに違いない。
 恥というのは自分のそういう無惨な有様を省みる視点があってはじめて生まれる感情なのだから。


 ただ、もし著者がこの本で表現しようとした、価値観にもならないような混迷しきった価値観をいまだ抱え込みながら、それを世間にバラまきつつ“おめおめと”生きているのであれば、結局はどこかで行き詰まってしまうだろう。
 それは、そういう価値観が、本論全体を通じて見ていくように、人生の理に合わないいわば錯覚にほかならないからだ。

 そして彼が自身の錯覚に追い込まれて、実際に安易な死を選んでしまうのではないかという予測も十分成り立つ。

 たとえば、最近自分が書いた“思想”に行き詰まって自殺した、見沢知廉氏のように。
 彼もまた、その著作のいたるところで自殺を暗示していたと思う。

 考えてみれば、もっぱら根深いナルシシズムを書く動機として多くのムリを抱え込んだまま、ある種の価値観を伝播させようとニヒルに居直って社会の常識一般を挑発し、世を注目させつつ顰蹙させるその姿勢は、じつに両者共通していないだろうか。

 読後の印象がどちらもおなじような、とても饒舌な言葉とその半面の空虚感であるのは、読んだ方はよくご存知だろう。

 ところでこう書いている自分は、どんなに劣悪で害を及ぼす存在であっても、だからといって死んでいい人間などこの世にはいないと、心底思えるように目下努力している。

 あとで紹介するように、科学と理性を含んで超えて、どんな人間にも根本的に生きる理由と意味があるということの宇宙的根拠を語ることができる時代状況に、ぼくらはすでに生きているからだ。

 しかし、心に深く染みついたばらばら思考のニヒリズムを脱却するには、ちょっとアタマで考えるだけではまったく不十分で、意図的で持続的な内面の作業と、それを腹に収めるための相応の時間が必要らしい。

 そのような発達途上の自分が、常時・心底・無差別に、“どんな人間にも生きる理由が与えられている”と思い切れているわけではないことは、ここで認めておく必要があるだろう。

 さもないと、この『完全自殺』の著者と同じく、自分がうまいこと語ってみせた言葉を、じつは全然生きていないというような、よくありがちな恥ずかしい自己欺瞞に陥ってしまうだろうから。

 そうならないために、たとえすべて言葉による理念のとおりには生きられないにせよ、少なくとも語った言葉と自分の現実との間の距離を、たえず振り返って確認しておく必要があると思うのだ。
 そしてその距離にこそ真実が存在するのだと思う。

 そういうわけで、ライター・鶴見済氏が、この本を出すことでどれほど世に毒を放ち、そのメッセージによって多くの若者の死を煽って社会的に損失を与えつづけることで、いわば(単に公衆衛生的な意味で)“社会のガン”と化していようとも、そんな彼にも人間としての尊厳と人生を生きる何らかの意味が与えられているのだと考えるべく、努力をしているつもりである。


みんなのプロフィールSP
[PR]
by type1974 | 2005-10-03 16:21 | 自殺