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『完全自殺マニュアル』完全批判12

いじめの構造


『完全自殺マニュアル』が暗に発している、“いじめる側からのメッセージ”を暴き出すにあたり、少し長くなるが、ここで“いじめる側”の心理を考えてみたい。

柔軟な自信とそれに裏付けられた謙虚さをもって自然に振舞うことができる人間がいじめに走ることは、たぶんけっしてない。
そういう立場に立った方や、いじめの状況に居合わせた方はよくご存知と思うが、いじめる側の人間も、じつは根深い劣等感を抱えているという事実は、おそらく普遍的だと思う。

ここでいう劣等感とは、本書の著者が強調しているような、暗さとか人間関係の下手さとか能率が悪い、などということと単純イコールなのではない。

そういうふうに何をもって劣等-優越と見るかにかかわらず、社会(外部)の側が要請する価値のモノサシを自分にあてはめて、それを基準に自分が他人より劣った存在だと計る心性こそが、劣等感にほかならない。
成績、地位、知識、容姿、性格特性、運動技能…と挙げていけばきりがない中で、たとえば“明るい/暗い”というのは特殊な一つの価値軸にすぎないことがわかる。

そのように置かれた状況によっていろいろなモノサシがありうるわけだが、しかしこの“外から押し付けられたモノサシを受け容れて自他の優劣を計る”という構造は、実にあらゆる劣等感、そしてその裏返しの優越感に共通していると思う。

そういう社会があてがうモノサシを無自覚に受け容れ続け自分に当てはめていく限り、ありのままの自分を素直に認めて揺らぐことのない自己信頼=自信を獲得することなどできないのは、ちょっと考えてみれば当然だ。

なぜならそういうモノサシを自分に当てはめる限り、どこまでいっても誰かとの比較を意識させられ、比較すれば常に誰かよりも劣っている自分を意識せざるをえないのだから。

仮にちょっとばかり優越してもそれは必ず相対的なものにすぎず、またすぐに他人に追いつかれるもので、決してどこまでも安心できはしない。
そのように優越感には常に劣等感が表裏一体のものとしてとりついている。
それが無条件に自分を信頼するという意味での自然な自信ではないのは明らかだと思う。

社会からのモノサシを自分に当てはめて不安定に優越感と劣等感の間を行ったり来たりするような、誰も幸せにならないこんな心のあり方を、いったいぼくらの世代はどこで身につけてしまったのだろうか?

それは、記憶力、性格特性、運動能力、社交性、人間関係、個性・自発性(そんなものまで比較優劣の対象だったのだ)、等々という人間のじつにさまざまな側面を、集団の中で比較し優劣を付け成績評価を下す、競争社会の準備機関である学校という特殊な環境の圧力によって、ぼくらの世代のたぶんほとんどが、いわば骨の髄まで条件付けられてきたものなのだと思う。

だからぼくらの多くには、“ありのままの自分を認める”なんていう言葉は、安っぽいセールストーク以上には聞こえない。それは他人と比較して目だった長所も美点もない、醜くてつまらないところばかりが目につく自分を、みじめなままありのままに受け容れろということになってしまうからだ。
比較をしてしまうと、ありのままの自分とはつねに誰かに劣っており、したがって大した価値なんてないように見えてきてしまうのである。

じつは単に方法を知らなかっただけで、そういう外からあてがわれた価値のモノサシを外して自分を絶対評価してやり、揺るぎない自信を確立することは、意外に簡単なことのようだ(前掲書『生きる自信の心理学』岡野守也著、参照)。
しかしそういうことは、ぼくらが教育を受ける過程で耳にしたことは多分まったくなかった。

ぼくらは社会や学校の要請するいくつかのモノサシに沿うことこそが正しいと教え込まれてきたために、つねにアイツより上か下かと考えるように、あまりにも条件付けられしまっている。
そのなかで上に下に、右に左に、自分の価値は浮動し安定していることができない。

ぼくらが自然で健康な自信=自己信頼をなかなか身につけることができないでいるのは、たぶんそういうわけなのだと思う。


では、いじめが起こるような学校の教室での価値のモノサシとは、一体何だっただろうか?

ぼくらの通過してきた学校は、“明るく・仲良く・元気よく”というふうな空疎なスローガンを表のプログラムとして建前上運営されていながら、実際には競争社会に適応できる人間を大量生産し、それに乗れない人間を矯正することを公然の裏プログラムとした、産業主義の準備・養成機関であった。

これはそこに携わる人の善意や教育への熱意を皮肉るものではなく、単に全体の文化状況がそうなっていて、その一単位である学校もそのなかにはめ込まれたものであると言っているにすぎない。

そして学校の建前のモットー“明るく・仲良く・元気よく”とは、そんな社会における適応的な人格の特性にほかならない。
そういう無内容ではあるけれども自然の健やかさへの理想が込められた“期待される人間像”は、しかし競争へ競争へと方向付ける学校的価値観のギスギスした圧力によって、グロテスクに変形される。

そんなふうに目的も方向性なくただ成績によって上下関係をつねに意識させられる一方、適切な人間関係の持ち方だとか、仲間集団をどのように健康なかたちで形成するかというような、社会を担う者にとって本質的に必要なスキルは、すくなくともカリキュラムとして教えられることはなかった。

適切な文化的枠組みを与えられていないそういう未成熟な集団にあって、価値あるように見えるものとは、商業主義一辺倒でカネ勘定以外社会的責任などということはたぶん何も考えていない巨大メディアが発する情報の刺激であり、それらが形作る“社会とはようするにこんなもんだ”という総体としてのメッセージである。

たとえば高視聴率を獲得しているという民放テレビのひたすら“お笑い”を追求するいわゆるバラエティ番組に、そういう子供たちが受け取るメッセージが典型的に見て取れるであろう。
それらはあたかも、どんなに作られた白々しいものであっても、痙攣したような強迫的な“明るい”笑い声がないと、一秒たりとも場を保つことができないといったふうではないだろうか。

そんなレベルのものが、人格形成過程の子供が受け取る人間関係のモデルとなるのである。
情報はただ受け取られるだけでなく、受け手の心そのものとなり、行動を規定していくということが、そういうメディアの担い手は見えていない、というか見えていないふりをしているのではないか。

であるとすれば、さきの学校の建前のうち、“明るく”が、ひたすら外向的であることや会話をしらけさせずに回すことに、“仲良く”が、なるべくフラットに人間関係を拡大すること、そういう集団から取りこぼされることを恐れて同調に汲々とすることに、“元気よく”が、明るさのヒエラルキーの上位に立って下位の者を抑圧し、取りこぼされた人間を排除するようなことに、簡単にすり替わってしまうもそれほど怪しむべきことではない。

そして一日八時間以上、毎日毎日詰め込まれて逃げ場がない学校の、無目的でルールも役割もない教室的な人間関係の中で生き延びるためには、たとえそんなふうに歪なモノサシではあっても、それに沿うよう自分を当てはめて生きることは、適応のためにはとても重要となる。
モノサシに沿うことができず雰囲気にとけ込めない人間は、寛容性の低い集団ではすぐに排除の憂き目に遭うのが常だ。

そういう息が詰まるような、“明るさ”への同調圧力が横溢する教室の雰囲気の中で、内向的に暗く一人でいたりするのが危険なのはいうまでもない。そんな集団に適応するためには“明るさ”を装わなければならない。擬態して、周囲の色に溶け込むのである。

さもないと、人間関係のヒエラルキーの底辺に貶められた存在にされるか、悪くするとそこからの排除、つまりいじめの標的にされてしまうだろう。そうならないためにはハイでいなければならない。内心つねに張りつめていなければならないのである。“テンション高い”なんていう言葉を、最近よくそんな文脈で聞いたりしないだろうか?

これは生徒間だけの話に限らない。子供を指導すべき学校が、そうした歪んだ(こういってよければ誤った)方向づけを修正して、適切な価値基準を教えることをほとんど怠っているように見えるからだ。むしろ学校自体が全体の文化の一単位として、そういう息苦しい風潮をはびこらせている温床となっている。

これは自分の体験と主観から語っているところが大きいので、現在の学校の状況にどこまで一般化できるかはよくわからないが、しかしすくなくとも、そういう歪んだ神経症的な価値観がこの社会のいたるところに瀰漫しているのは、あまりにも明らかだと思う。


このように、学校の教室における人間関係の価値軸とは、とりもなおさず明るく・外向的・社交的であるかどうかということである。したがって内向的で人間関係を結ぶのが下手だったりすると、それは劣等にほかならないのである。

また、さきに見た社会的モノサシによる相対的な自己評価それ自体がつねに揺らぐものであったように、教室的な同調圧力に一見適応できているかに見える者もまた、相対的にアイツに較べてダメだとか、いつ自分が転落するかとか、心は揺れ動いて安心するいとまがない。優越感は常に劣等感の裏返しである。

自分の本音が暗く内向的で、そんな息苦しい雰囲気についていけないものであったとしても、それは強い劣等感とともに恥ずべきものとして感じられ、素直に自分のものとしては認めがたい。そんなものがあると認めると立場自体がやばくなるのだ。

そういうふうな、つねに“お笑い”がないと間を取り繕うことさえむずかしいような空虚な人間関係にあって、自分の内に抱えた劣等感をないものにし、集団から排除されることがないようにするためには、自分自身の劣等感をより劣等に見える者に投影して、それを貶めて排除おくのがいちばん手っ取り早い。

こういう歪に変形した“明るさ”を強要する雰囲気と、それにもとづく暴力的な同調-排除の圧力のなかで、他人を蹴落としてちょっとした優越感を感じ安心を得ようというのが、ようするに学校という特殊な閉鎖環境での、いじめの心理的な構造であると思う。

                                            (以下、次回)


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by type1974 | 2005-10-19 03:03 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判11

著者の抱く「真理」


 この『完全自殺マニュアル』の著者が、社会不適応な人間の不幸と絶望、とりわけいじめを受けて自殺した人間の生き様・死に様に、特殊な関心を抱いているのは本文を読む限り間違いない。

 それは死んだ人間の内面にほとんど触れることなく外面的な自殺方法の“情報提供”に終始している本書が、そういう自殺者の場合に限って異例なコメントを発していることから読みとることができる。

 それにしても、著者・鶴見氏の、これら社会不適応な人間の死への執着は、いったい何なのだろうか? そしていじめ自殺のエピソードに示された、異例とも言える彼の関心は何を意味するのだろうか?

 とりわけ彼にとっていじめは、単に他人事であるだけでなく、本書の中でくり返し自分なりの人生観を表明して取り上げるに足る、とても興味深い他人事だったようだ。
 これらを、著者自らがどのような立場に立ってこの本を書いたかを推測する足がかりとしたい。

 人は価値観からくる偏向抜きで客観的に真実を語っているつもりになりがちだが、実際には自分なりのものの見方・事実の切り取り方から、どこまでも自由になれるものではない。
 そして忘れたつもりの自分の足場を衝かれると、往々にして強烈な反応を示したりしがちだ。

 では彼は自分でも無自覚に(もしかしたら自覚的に)どのような立場に立ち、そこから何を見ようとしているだろうか。

 漫画家・山田花子の例に見られるように、この著者は、いじめを受けるような暗くて内向的な人間は、この社会に生きるのにそもそも適さないのだと明言している。
 それはつまり、そういう人間は生来劣った存在であり、そもそも生きるに値しない生命であるという決めつけ・価値付けにほかならない。

 そういう言葉の前に「この日本社会では」「クラスという奇妙な集団で」などと、一見留保を付けているようであるが、しかしまさにそのような産業社会の競争主義や教室的な価値観をあまりにも真に受けているのがこの著者自身であったことは、すでに明らかにしたとおりだ。

 つまり“この社会”や“息苦しい教室”がそういう人々を生きるに値しないと見なすとは、彼自身が自分の視界を覆った色メガネをとおしてそう見なしている、ということにほかならない。

 しかも“生きる上で割を食うことがある”から“劣った人間である”さらには“生きるのに適さないので自殺が当然“の間には、極端な論理の飛躍があるのに、著者はまったく無頓着である。

 その間にはきわめて大きな隔たりがあるはずなのだが、それが存在しないことになってしまっているこの思考のあまりの短絡は、いったい何なのだろうか? 

 それを以下に明らかにしていきたい。


 確かにこのますますギスギスしつつある産業主義・日本社会の、たとえば明るくノリがよくなければならないような雰囲気がある教室で、そういうふうな内向的で能率的に動けない人間が健やかに生きていくことが難しいという状況があるのは事実だろう。

 ところがそこから一足飛びに、いじめられるのはとりもなおさず劣等な人間(「いじめられるヤツ」)であり、そういう必然な不幸を生来背負った劣った存在は自分で死を選んで然るべきだと、なぜか断定してしまっているのである。
 念入りにオブラートに包んではいるが、それらの言葉が指し示していることを読み取れば、ようするにそういうことになる。

 もちろんそういう状況に陥った場合に、他に採るべき道はいくらでも存在する。
状況から退避すること、学校に行かないこと、人間的に成熟した大人の第三者に間に入ってもらうこと、人間関係を調整すること、本人が心理的に拒否できる能力を身につけること、等々。

 しかしこの著者にとっては、競争主義的・学校的な価値の枠組みを外れた選択をすることなど、最初からありえないらしい。

 つまり、こうした事例を取り上げることで、適者生存の競争社会で生きるに適さない人間は自分を廃棄処分にして然るべきだ、という彼自身のテーマを語りたいのだろう。
 要するに彼は、この社会とはきわめて単純な弱肉強食の構造にほかならないと言いたいのである。

 そうして彼は、「自殺とは…自然淘汰の一手段である」という、19世紀、つまり前々世紀(!)の自殺研究家の言葉をもっともらしく引いて、それは「間違いなく当たっている」と、もはや前提自体があやしい断定をする。

 二世紀も前の社会ダーウィニズムの言葉が彼にとって疑いのない真理というわけである。そんな科学的根拠のもはや疑わしい理論が、かつて自民族の人種的優越を正当化するナチスのお気に入りだったのは、記憶にとどめておいたほうがよいだろう。

 著者の中では、いじめという学校的な特殊な現象は、かつてダーウィンがイメージした素朴な自然の掟の露骨な縮図であるらしい。

 この本のいたるところに見て取れるように、著者自身がそういう弱肉強食・適者生存的な競争主義の価値観にひどく囚われている。
 そしてその記述に即して考えれば、彼はそういう価値尺度から“弱者”を設定し、明らかに自分自身を強者の側に置いて、その運命について発言しているのである。


 しかもこの著者にきわめて特徴的なのは、その価値軸がここでも”強い=明るく適応的/弱い=暗く不適応的”という単純図式であることだ。

 しかも暗く内向的、即劣等という価値付けの根拠が説明されることはない。それは著者にとっては説明するまでもない自明のことであるらしい。

 前に取り上げた『人格改造』が、暗くて内向的な自分が明るく外向的に生まれ変わる、という方向性への著者自身の強烈なこだわりに貫かれていたことを思い出そう。
 そこから、彼がなぜこの『完全自殺』で、ことさらにいじめにかかわるエピソードを取り上げているのかが見えてくる。

 つまり、本書のいじめ自殺に関するこだわりとは、彼自身が学校的価値観にいまだに囚われていることを雄弁に物語るものにほかならない。
 そして“明るい/暗い”というような二分法的な価値軸とは、以下に述べていくように、まさにそういう学校に詰め込まれている生徒らにとって、空気化・自明化しているものなのであった。

 そのような自らのうちにある弱肉強食の学校的価値観・教室的状況の図式において、著者はある立場を取ろうとしているのが、この本の軽々しい記述からあからさまに見て取ることができるのである。

 その立場とは、教室でのいじめる側のそれと同じものである。以下、そのことを掘り下げていきたい。


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by type1974 | 2005-10-15 12:54 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(10)

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死にゆく者への目線


 ここでは、自殺を刺激的な情報として語っている本書が、自殺した人間をどのように語っているかを見ていこう。
 見てきたように、この本は自殺の方法論については多くの紙幅を割きながら、それを実行した人間の内面にはほとんど踏み込んでいないのだった。

 しかしその中で、著者が人生観めいた感想と自殺者に対する共感らしきことを述べている異例の箇所が、いくつかあるのが目を引く。
 とりわけ漫画家・山田花子の死についてのエピソードをはじめ、いじめによる自殺に関してそういったコメントが目立つことから、著者の関心がどのあたりにあるかをうかがうことができよう。

 山田花子というと漫画家はひじょうに特殊な自分の世界を描いた作品で一部に知られている(最近は同名の芸人のほうが有名になっているが)。
 実を言えば絵はたいへんまずいし、ストーリーはあってないようなもので、これをそもそも読む対象としての漫画作品ということができるのかは疑問があるところだ。
 しかし、同じような心の傾向を持った人間には、その作品は痛いくらい“わかるなあ”と思わされるものである。

 その傾向とは対人恐怖というきつい心の歪みのことだ。
 彼女はそのひどい症状に悩まされて、社会との接点を見いだせないまま、結局24歳で飛び降り自殺をして果てた(92年)。

 彼女は死ぬ直前まで、自分が人との関係を結べないことを文字通り死ぬほど恥じつつ、これだけが自分の世界なのだというふうに、執拗に一貫して自分の対人恐怖をテーマに描き続けた。
 その醜いまでの自己暴露は、対人恐怖の人の見ている世界を窺うにあたって、ほんとうに希有なものだと思う。彼女はそれをごまかすことができなかったようだ。

 例えば太宰治の『人間失格』は、そういう対人恐怖の主観的世界を描いた文学作品とされるが、そこには対人恐怖という心の歪みに距離を置き、物語として美化する余裕が感じられて、ひどく甘ったるい印象が拭い切れない。
 文学人として自己確立し社会的関係を結ぶことができた彼の病とは、おそらく対人恐怖と別種のものだっただろう。

 文学的にはもちろん較べるべくもないのだろうが、こと対人恐怖という点において、自己美化とかナルシシズムの入り込む余地がまったくない山田花子の描写のほうが、はるかにリアリティと実感が込められていて、迫力がある。

 ほぼすべての作品に共通しているのは、人との接触にひどく取り越し苦労し、かといって人との接触を断つことができず、その中間でどうふるまっていいのか途方に暮れている姿だ。

 そうして、あまりにも自意識過剰で人と関係を作ることができず、そのことをひどく恥じ、自然にふるまうことができず友達を作れない自分はダメ人間なのだと、徹底的に自虐し続ける。
 その常に変わらないテーマは結局“友達がいない”ということだったと思う。
 そして、友達を作って自然に生きているすばらしい他人と、それができないまったく劣った自分、という自己確認が、作品の主要動機に見える。

 一言でいって、ひどく痛々しい。そんなに足りないところを凝視ばかりせずに、視点を外して自分を楽にしてやればいいのにと思われるが、若い彼女にはそんな余裕がなかっただろう。
 学校を出てみると、友達なんかいなくても、生きるのにはぜんぜんOKだということに気づくのだが。

 彼女がそのことばかり気にしている様は一見極端で異様だが、しかし友達がいないと自分の存在自体がやばくなってしまう教室的状況というのは、わかる方も多いだろう。
 “友達がいない”などということは、結構な歳になっても口にするのが難しかったりする。

 学校の教室で、やることのない休み時間、一人でいるような人間は、ほとんど“アンタッチャブル”扱いではなかっただろうか? 
 教室には、無内容な“明るさ”を基準とする人間関係のヒエラルキーがたしかに存在した。そういう事情は今も変わっていないのだろうか?

 彼女の場合輪をかけてきつかっただろうと思われるのは、そういう教室でかなり手ひどいいじめを受け続けていたらしいことだ。そういうミもフタもないいじめの様子も彼女の漫画に繰り返し登場する。
 『完全自殺』の記述を信じる限りは、卒業後も彼女はそういう人間関係のパターンをくり返し、まともな社会生活を送ることができない中で、自殺に到るまでそういう自己確認的な漫画を書き続けたらしい。

 みなと同じように人と関係を結びたい…自分にはそれができない…人並みに人間関係を結ばなければならない!…でもできっこない!というような、常に同じパターンの悪循環のくり返しにひどく囚われているのを、読者はその漫画から、いやというほど窺うことができるだろう。

 いろいろな要因はあるのだろうけれども、彼女がはまりこんでしまった悪循環とは、おそらくそういう教室的な状況でいじめをうけながら、毎日毎日、いやというほど直面させられて身についてしまったものなのだろうと推測される。

 山田花子作品については、この『完全自殺』でその存在を知って、さっそく買って読んだと記憶している。そしてそのつらさの強弱の度合いはともあれ、どこまでいっても続く醜い堂々巡りの暴露に、これはまさに自分のことが描いてあると思ったものだ。
 いたるところが自分にも思い当たって痛いような感じがする一方、自分と同じ種類の人間がいるのだと確認できたような気がした(といって安心は全然できなかったが)。

 そういう彼女の死のストーリーについて、本書は異例の4ページを割いて、人生の教訓めいたコメントともに紹介している。他に同じような扱いを受けている自殺者の記事がないことから、彼女のそういう生き様・死に様は著者の関心を強く引いたことが窺われる。
 それでは、本書はその彼女の死をどのように扱っているだろうか。

 「彼女の一生は他人の視線に怯え続けた人生だった…彼女の苦悩には、計り知れないものがある」
 そういったセリフで、一見彼女の苦悩に寄り添っているように見えるが、よく読むとむしろ共感とは別種の冷たい感情がそこにはたらいているのを、読者は見て取ることができるだろう。

 そのコメントを要約すれば、「彼女は生まれながらに暗く内向的で、常にいじめられ続けてきた。そういう弱者としての運命を抱えた彼女が自殺を選んだのは正しい選択であった。それがこの世の必然なのだ」ということになるだろう。
 そして作品の中の絶望の言葉を引いて(「イヤなら自殺しちまえ」)、そういう“諦念”こそが人生の真実なのだと述べる。

 しかし著者が彼女の対人恐怖を理解しているようにはまったく見えない。あくまで他人事にすぎないとしか読めないのだ。
 そこには、弱い人間は生来そういうふうにできていて、そして人間は終生変わり得ないのだという、先の本で見たとても狭くて浅い認識がある。

 すなわち、彼女の描く症状の部分だけを見て、そこから来る認識の歪みと、惨めさと裏腹な強がりだけを、彼女という人間の本質だと捉えている。そういう実体としての病そのものである彼女は、われわれ正常人とは別種であり、この社会では生きるに値しないと言わんばかりだ。

 しかしそうしたこの病の奇異な様は、じつは表面に現れたものにすぎない。
 そういう対人恐怖の表面上に表れた人間関係の不能の背後に、他者との関わりを痛切に求める本音があるのに、この興味本位の観察者は気づくことがない。

 見る眼があれば、彼女の作品のどのページにも背後にそういう切望があることをはっきり読みとれるのだが、このシニカルな著者がそれに気づくことができないのは、考えてみれば当然のことであっただろう。

 そういう人とのつながりを切望する本音と、裏腹な対人能力への強い羞恥心、関係の中で心理的なまとまりを保てない人格の未成熟さ、親しい関係を求めながらもそれができない自分を反省しすぎて自己非難してしまう過剰な自意識、それらこの病の中核にあるものに、この皮相な観察者はまったく疎い。

 ここに、病気がその人自身の本質であるかのような転倒した捉え方が見られる。それは、心の病とは生来のものでそれ自体としてずっと変わることがないという、無前提の実体視に他ならない。
 さきの『人格改造』の人間=機械観が、ここでも暗黙の内に前提とされている。壊れた機械は修理不能、というわけだ。

 ここでは心の回復ということにも、それを追求する臨床心理学・心理療法についても、一言も言及されていないことに注意しよう。
 症状のレベルによって困難はあるだろうし、現在の日本に有効な社会資源が少ないという事情もあるが、心の病は回復が可能である。

 にもかかわらず、この著者にはそのことが見えていない。いや、見ようとしていないというべきか。
 結局、“人は自分の心をどうすることもできない”という自分の間尺に合わせて、“観察対象”を自分の見たいようにみているにすぎないのだ。

 このように、明らかに著者にとっては、いじめも対人恐怖も視線恐怖も、自分に関わるものではなくあくまで他人事である。
 そういうふうに誰か自分とは関係のない弱い人間の特異なストーリーとして、クールに興味本位に観察して語っていることに、読者は注意する必要がある。

 そしてその死を、自分が社会から無批判に取り入れた価値観(暗く内向的=劣等・無価値)にそのまま当て嵌め、弱者の運命と必然の自殺という、短絡的で安易なストーリーに組み立てている。

 その背後に著者自身のどのような意図があったのか、次に見ていきたいと思う。


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by type1974 | 2005-10-07 14:36 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(9)

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彼自身の理由


 さて、このように著者自身が本書のメッセージを欺いて、なぜか生きのびているのである。

 だとすれば、著者がいまだ「勝手に」生きているのは、本書で彼が語っていない、というか当然語ることのできなかった、暗黙の理由なり意味感覚があるからに違いない。

 つまり、「この生きるに値しない世にあって自殺はとてもポジティブな行為で、しかもとても簡単だ」ということを語りながら、自殺することなく人生を続行するというとても器用な綱渡りができるためには、“語ってみせたクールなタテマエ”と“生きていられる実態というリアルなホンネ”、すなわち著者なりの人生の二重基準が存在するとしか考えられない。

 そして、当然ながらそのタテマエとは自分に関係のない他人に限って適用される、というわけだ。

 これは推測だが、曲がりなりにもライターとして大ヒットを当てると、後続の著作を出して安定収入を得ることができ、自分の名前が世間に流通し、マスコミで発言する機会が出てきたりする。そしてそんな彼の言葉を真に受けてしまうような信奉者がそれなりに出てきたりすると、人間の本来自己愛的な傾向の強い深層自我は大いに刺激されて肥大するのではないかと思われる。

 そしてそこに、彼が否定してみせた“生きる意味”を感じたりしているのではないだろうか?

 これには根拠がある。
 それはとりわけ、『完全自殺』から三年後に刊行された『人格改造』のほうに、はるかに自己言及的で自己愛的と読める記述が多く見られることにある。
 前者においては一見観察者に徹しきった視点をとって自分を打ち出すことを抑圧していたのに比べて、後者では著者はずっと主体的・能動的で、“自分を癒す”ということが主眼になっているのだ。

 すなわち、『完全自殺』が著者の抱えている人生観にかかわるメッセージの表明(自殺の誘いはその手段)だったとすれば、『人格改造』は著者自身を表現することが目的(“改造”のテクニックはその手段)となっていると読める。

 もっぱら自分自身を表現しようという意図とは、この場合歪んだ自己愛の営みに他ならない。そのような表現に意味を感じるなどということは、彼の当初の言葉を額面通り受け取る限り、ありえないはずなのだから。

 穿った読みをすれば、この間の『完全自殺』の“大成功”に気をよくして、自分の語る言葉にある種の自信を得て、後続の著作ではより自分の思いを打ち出してきている、という印象がある。
 そしてそこでは、見てきたように、どれほど否定的で悲しいまでにフラットなものであったにせよ、彼なりの生きる根拠を掴もうとして必死なのであった。


 よくは知らないし、あまり知りたくもないのだが、どうも『完全自殺マニュアル』の著者・鶴見済氏はまだどこかに生存していて、何か著作活動などもしているらしい。
 ここに滑稽だが笑えない、根本的な矛盾と欺瞞がある。

 まるで、資本主義の転覆をアジる痛烈な演説をぶった元学生活動家が今や有名一流企業の管理職をやっているような、若者に“大義のため”と特攻での死を命じた司令官が戦後天寿を全うしたような、最終解脱と世界の救済を標榜して無差別テロを実行した教祖サマと幹部らが法廷で醜態を晒しているような、それと同じ虚脱感。
 語った言葉のすべてがウソだったことを自らの生き様で証明する、卑怯だけど腹を立てるのもむなしく感じられてしまう、あまりに人間くさい人物たち。

 いや、そもそもこの著者の小さな物語は最初から虚脱感と虚偽に満ちているので、そういう皮肉も成り立たないのであった。

 むろん自分の考え違いに殉じて死ぬのは悲しくてロマンティックな愚か者だ。しかしそれでもいくばくか、自分が語った言葉への責任と誠意とが感じられるというものだろう。
 ぼくらが映画や小説の結末などで目にするそういうタイプの死は、だからこそドラマになり、共感や感動をそそることになっている。

 それどころか、この国には“自決”という観念と風習が、意外に最近まで存在した。
 言葉で交わした信義を個人としての自分の生命よりも重んじるその生き様は、そういう時代からは価値的にもはや遠いところにきてしまっているぼくらには到底真似しがたいものだけれども、それでもある種の高潔さを実感することはできる。

 そう感じさせるのは、彼らが保持していた信仰やイデオロギーの内容自体ではない。
 そうではなく、彼らが小さな自己保身や執着を捨て、自分の全心身を挙げてその“大きな思い”そのものとして生き、いのちを賭けたからだろう。それが「言行一致」という言葉の本来の意味だと思われる。

 それに較べるべくもないのだが、「生きるなんてどうせくだらない」「もう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」と吹聴しながら、『完全自殺』刊行後10年以上を生きおおせ、社会を拒絶するポーズをとりながらその社会のある種の波にしっかりと乗り、判断能力の未熟な若者や自殺志願者および実際の自殺者から今も多額の印税収入を吸い上げているライター・鶴見済氏の存在は、おそらく意識的と思われるその自己欺瞞のゆえに、限りなくインチキくさい。

 「恥を知らないのか」とぶつけても、たぶんむなしく響くだけだ。
 先に見たように、彼は自分の言葉など最初から全部ウソだとどこまでも逃げ続け、自分が内に抱え込んでいる空虚に向かってかぎりなく退却していくだけだろうから。

 責任からの逃避と自己解体による退行を人生の真理と考える人間には、恥という概念はそもそも存在しないに違いない。
 恥というのは自分のそういう無惨な有様を省みる視点があってはじめて生まれる感情なのだから。


 ただ、もし著者がこの本で表現しようとした、価値観にもならないような混迷しきった価値観をいまだ抱え込みながら、それを世間にバラまきつつ“おめおめと”生きているのであれば、結局はどこかで行き詰まってしまうだろう。
 それは、そういう価値観が、本論全体を通じて見ていくように、人生の理に合わないいわば錯覚にほかならないからだ。

 そして彼が自身の錯覚に追い込まれて、実際に安易な死を選んでしまうのではないかという予測も十分成り立つ。

 たとえば、最近自分が書いた“思想”に行き詰まって自殺した、見沢知廉氏のように。
 彼もまた、その著作のいたるところで自殺を暗示していたと思う。

 考えてみれば、もっぱら根深いナルシシズムを書く動機として多くのムリを抱え込んだまま、ある種の価値観を伝播させようとニヒルに居直って社会の常識一般を挑発し、世を注目させつつ顰蹙させるその姿勢は、じつに両者共通していないだろうか。

 読後の印象がどちらもおなじような、とても饒舌な言葉とその半面の空虚感であるのは、読んだ方はよくご存知だろう。

 ところでこう書いている自分は、どんなに劣悪で害を及ぼす存在であっても、だからといって死んでいい人間などこの世にはいないと、心底思えるように目下努力している。

 あとで紹介するように、科学と理性を含んで超えて、どんな人間にも根本的に生きる理由と意味があるということの宇宙的根拠を語ることができる時代状況に、ぼくらはすでに生きているからだ。

 しかし、心に深く染みついたばらばら思考のニヒリズムを脱却するには、ちょっとアタマで考えるだけではまったく不十分で、意図的で持続的な内面の作業と、それを腹に収めるための相応の時間が必要らしい。

 そのような発達途上の自分が、常時・心底・無差別に、“どんな人間にも生きる理由が与えられている”と思い切れているわけではないことは、ここで認めておく必要があるだろう。

 さもないと、この『完全自殺』の著者と同じく、自分がうまいこと語ってみせた言葉を、じつは全然生きていないというような、よくありがちな恥ずかしい自己欺瞞に陥ってしまうだろうから。

 そうならないために、たとえすべて言葉による理念のとおりには生きられないにせよ、少なくとも語った言葉と自分の現実との間の距離を、たえず振り返って確認しておく必要があると思うのだ。
 そしてその距離にこそ真実が存在するのだと思う。

 そういうわけで、ライター・鶴見済氏が、この本を出すことでどれほど世に毒を放ち、そのメッセージによって多くの若者の死を煽って社会的に損失を与えつづけることで、いわば(単に公衆衛生的な意味で)“社会のガン”と化していようとも、そんな彼にも人間としての尊厳と人生を生きる何らかの意味が与えられているのだと考えるべく、努力をしているつもりである。


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by type1974 | 2005-10-03 16:21 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(8)

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「あとはもう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」


 さて、世の中に絶望し(またはしたふりをし)、生きることなんてくだらない(ただし、たぶん他人が)と宣言してみせた著者は、ではなぜさっそく『マニュアル』の方法を実行して、早々にこの世に見切りをつけなかったのだろうか?
 なぜ著者はこんな本を書いていながら、自分自身は自殺しないで生きているのか?
 これはこの本を読んだ多くの冷静な人たちが抱く素朴な疑問だ。

 著者は本の最後に「生きたけりゃ勝手に生きればいいし、死にたければ勝手に死ねばいい」と述べている。そのことによって、自殺をするかしないかは単なる自己決定の問題だと、その追及を巧妙にかわしているようである。
 しかし、それは同時に自身が述べた本書のメッセージからの、明らかな逃げにほかならない。

 そうしてみると、著者が本書冒頭と後書きでわざわざ繰り返し、自分自身の寒々しい執筆の意図をはなから存在しないものにしようとした、いまひとつの理由が見えてくる。
 ようするに、そこまで自殺を奨励している書き手がなぜ死なないでいるのかという、容易に予想できる追及から逃げをうつための予防線を張っているのである。
 こういう点については本書の語りは周到である。

 「最初から営業のためで、本気で書いたものじゃなかったんだから、そんなに目くじらを立てられても困るよ。死にたいヤツが勝手に死んだだけだろう?」、といったところだろうか。

 しかし、「生きる」方向へ向かうための根拠をすべてくだらない幻想だと破棄し毒づくことで、ある種の自己表現をするのが著者の本書執筆の意図だったのは、先に見たようにはっきりしている。

 さらに、いろいろ逃げ道を作っていようと(その「自殺しちゃえばいい」という言葉にはたいてい「~ならば」という限定・条件がついている)、ようするに本書が、苦痛だけのまったく無意味な人生という悪夢から目覚めるためには自殺こそが正しくポジティブなのだというメッセージを発し、読者に自殺を強く教唆していることは、読み手の大多数が賛同するだろう。

 文章の意図がどこにあるのかという判定は、本来読者の側の読みと解釈に任されるものである。
 殺人の容疑者がいくら「殺すつもりはなかった」と口先で弁明して逃げてみたところで、陪審員の過半数が一致して宣告するなら、彼は殺人犯なのである。
 もちろんこれはあくまで喩えにすぎない。

 そういうふうに、生きるも死ぬも自己責任の問題だから「勝手にしてくれ」と、あくまでも自分自身にふりかかる問いを回避しようとしたところで、著者は結局どこまでも自身の語った言葉に拘束されざるをえない。

 ではあなたは、そんな暴力的に無意味な世界での苦痛ばかりの生を、なぜあえて「勝手に」選択して生きているのか?
 すべてを無意味だとし自殺を正当化する信念は、自殺を仄めかす冷たく突き刺さるような言葉は、あなた自身に限っては適用されないのか?
 この著者はそれに答えることができるだろうか?

 間違いなくできないはずだ。
 本書冒頭のように、言葉による生の理由付けなどはすべて幻想で意味も根拠もないと宣言してみせたからには、その上にどんな言葉を積み重ねようとも、嘘に嘘を塗りたくる結果になり果ててしまう。
 つまり、“生きること”について何かを語った途端に、彼が『完全自殺』で表現しようとした意図のすべてが裏切られることになるのである。

 したがって、生きるか死ぬかという選択肢は、本書に関する限り著者には最初から存在しない。自分の語った言葉に真実があるというのなら、著者は自殺に到る一本道を歩むほかにないはずなのだ。

 それとも自分の生きている主観的な世界に限っては別のルールがあって、何らかの生きる理由を自分なりに感じ取るのは個人の勝手だ、とでも言うのだろうか。
 そう、そのような自己欺瞞的な二重基準を著者は生きているのかもしれない。あとで見るようにその可能性は十分にありうる。
 もちろん、それも本書のメッセージらしきものの全否定に他ならない。

 この本を批判しその意図を無効化しようとする立場からは、そのどちらであっても大いに結構、ということになろう。
 いずれにせよこの本の著者は、「なぜお前は生きているのか」という疑問に言葉でもって反駁し弁明するという退路を、最初から自分で断ってしまっている。

 だから、自身の著書の視点からすれば、著者には書いたとおりに自殺に向かって突き進むか、生きて嘘を騙ったことを暴露し続けるか、そのどちらかの道を選ぶしかできないのである。

 「理由などない、生きるのは本能だからだ」「言葉以前に、死ぬのは誰でも怖いからだ」などというようなもっともらしい逃げも、もちろん無効である。
 そんな“本能”も“恐怖”も軽々と乗り越えるごく簡単な手段があることと、それを実行した下は12歳の少年と少女にはじまる幾多のケースが存在することを示したのが、まさに自身の書いた『完全自殺マニュアル』にほかならないのだから。

 その著者が「消えかかりそうな、ほそーい境界線」の、「息苦しくて生き苦しい」こちら側に、それでもまだ踏みとどまっているのはどうしたことだろう?

 「飛び降り自殺は痛くない。痛みも不安も恐怖もない。それどころかむしろ気持ちがいい」
 「首吊り以上に安楽で確実で、そして手軽に自殺できる手段はない」
 「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」に対して、自殺するのはこんなふうにごく簡単なこと、生きるよりはるかに簡単なことなのではなかったのか?

 そう語った著者自身が、いまだ生存してこの世を選んでいることこそ、本書のメッセージのすべてが嘘であったことを、雄弁に証拠立てている。
 彼はそれに反論する言葉を何一つ持ち得ない。


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by type1974 | 2005-10-02 18:50 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(7)

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言葉の、耐えられない軽さ



 さて、本書の内容に取り組むことに移りたい。
 だがその前に、内容それ自体の性質を問題にする必要がある。

 著者は、たとえば「はじめに」のおける“なぜ自殺がOKなのか”という社会批評めいた文章などのもろもろは、すべて営業上の理由でとってつけた「ゴタク」にすぎないのだと述べている。
 つまり、そもそもそういうもっともらしい執筆動機などは初めからなかったと言うのである。

 その言葉を額面通り受け取るなら、自殺についての即物的な記録やデータ以外の、一切の著者のメッセージめいたものは意味のないガラクタと選ぶところはなく、したがってすべて無視して構わないことになり、それはそれで大いに結構だと思う。
 だれも単なる見えすいた営業トークを真に受けて死のうとは思わないだろうから。

 しかし問題は、著者の真意がそうであるとはまったく見えないことにある。
 また、自殺の“手引き”等の記述に込められた、その冷たいメッセージの伝染性ゆえにこそ、この本が強い影響力を持っていることを無視するわけにはいかない。

 すなわち、どう読んでも、冒頭などに述べている空虚な「ゴタク」こそ、著者のある種の意図・動機・目的・メッセージとして先にあり、大部分を占める“死のマニュアル”はそれを伝えるための手段として後にあるとしか見えないのだ。

 それは読み手の主観にすぎない、ということはできないだろう。
 というのも、“マニュアル”部分の一見即物的でドライに見える記述のすべてが、冒頭に表明された著者固有のニヒリスティックなものの見方・文脈に位置づけられるものであることが、意識して見ればおそらく誰の目にも明らかだからである。

 本書は、全編にわたって家電廃棄物の処分マニュアルよろしく、自殺という重いテーマの、単なる事実的・即物的な表面を、軽薄かつドライな言葉でなぞってゆく。
 そして自殺者の死に様と、死の現場の状況と、その周辺的なエピソードとが、文字通り商品カタログのように淡々と陳列されている。

 クスリは何グラムが致死量か、縊死の際の頸とヒモの角度はどうあるべきか、飛び降り自殺ではどんな音がするか、列車の車輪に切断されると死体はどのようになるか、等々。

 いくつかの例外を除き、死者はそもそも人間として扱われていない。
 彼らに苦悩する内面は存在しない。あたかも外面だけ、モノとしての人間だけが真実だと著者は言いたいわけだ。
 共感らしき言葉を述べた箇所もあるが、それらも後で明らかにするようにはっきりと偽善的なものである。著者はある種の高みから距離を置いて観察して、それらの死を“おもしろがって”いるからだ。

 つまり、本書はすべての自殺のケースについて、自殺者の主観を完全に排除ないしひどく矮小化し、モノの集まりにすぎない(『人格改造』で見たとおり)“人間機械”である人間が、社会に適応できない欠陥品、あるいは社会の歯車にすぎないことに自ら気づいてしまった規格外の歯車として、それにふさわしく自己消滅していく様であると、一貫して描いている。
 すなわち「欠陥製品の自己破壊のデータ」というのが彼の自殺に対する不変のスタンスとなっている。

 もちろんこれも一定の読み方と言えないこともないと思われるので、もしそうでない読み方があれば修正する用意がある。その場合はぜひ教えていただきたいと思う。しかしいずれ空虚で陰惨なものであるには違いないだろう。

 ところで、自殺をどう捉えるかということについては、人により文化により思想により、例えば“自殺は罪悪だ!”から“尊厳ある死だ!”まで、“一時の気の迷い”から“運命の必然”まで、“魂の救済”から“虚無への消滅”まで、“悲劇的なロマン”から“実存的苦悩の帰結”まで、“自殺”から“自死・自決”まで、おそらく無限のグラデーションをもった多種多様な見方がありうる。

 その中で、本書の自殺に関するすべての記述は、冒頭に宣言された「生きるなんてどうせくだらない」「自殺は終わらない世界を終わらせるためのポジティブな行為だ」という、一つの特殊なコンテクストだけを選択し、それをどこまでも忠実になぞっているにすぎない。
 「あらゆるベクトルは『どうやって自殺するか』という方向に向いている」のは、著者自身の“ゴタク”で明かされた目的に沿う表現にほかならないのである。

 つまり本書のあらゆるところに、「はじめに」で表明された特有なものの見方へのこだわりを指摘できるということだ。そのフラットを装った表面の下に書き手の隠微な意図が潜んでいるのを、必要であれば随所で論証することもできよう。
 それはおそらくひじょうに徒労感をおぼえる作業になるだろうが。

 このように、著者は卑怯にも外面・表層の言葉の背後に隠れて、彼自身のナイーヴな動機を存在しないことにしようとしているわけだが、それにしては冒頭のニヒルに徹しきった語りは、陳腐だが執拗で鋭利で、ある種の実感がこもってはいなかっただろうか?

 しかし結局、彼は本書の末尾においても「あれは取って付けた話にすぎない」と、あらためて自分の意図らしきものを全部否定してみせる。あきらかにそれがあると見て取れる彼自身の視点へのこだわりを、そこまで無いものにしておきたいのはなぜなのか?

 それは、あたかも本が先にあって著者が後から出現するというような、ありえないまやかしにほかならないなのだが。



 このように、本書で語られる言葉はどこまでも軽く薄く、そして矛盾に満ちている。

 人の内面を見ることを拒絶し(あるいはほんとうにできないのかもしれない)、にもかかわらず自分の内面の動機を(後で見るようにそれがどのように低劣なものであっても)表現しながら、同時にその動機自体を否定してみせる、著者の皮相で欺瞞に満ちた言葉は、その最初から信用しがたい。

 本書は、自殺を否定し生を肯定しようとする、あらゆる常識的な言葉を、すべて嘲笑し拒絶する。そしてそのことによって、いわば人を生に向けて動機づける一切の言葉への無力感・不信感を表現しようとしている。

 つまり著者は、言葉が心に及ぼす影響力というものを、基本的にまったく信用していないという態度をとっている。流行の価値相対主義の波に乗っかって、言葉に「意味」や「価値」を読み取るのは幻想だ、言葉の影響力を拒絶することこそがクールであり真理だと、そう言いたいのだろう。

 そして、言葉によってリアリティを構築するような幻想に気づき、幻想をすべて拒絶している自分は、その幻の中で“生きる意味”などを“熱く”語ったりしているすべてのくだらない常識的な人間にくらべて、はるか高みに立っているのだ、とでも言いたげだ。

 「自殺を止める有効な言葉はとっくになくなってしまった」と、著者は彼自身の言葉をもって断定する。自分の言葉に限っては、そのように無前提・無根拠な価値判断を下す力があるというわけだ。

 しかし、そうした著者の暗黙の意図は、通俗ニヒリズムという思考内容・思想、つまり言葉のシステムとして彼の内面に構築されたものであるのは確実だ。「こうして無力感を抱きながら延々と同じことを繰り返す僕たち」、すなわち“暴力的に空虚な世界における無力な被害者”という物語として。

 さらにその表現は当然ながら彼自身の言葉に依っており、そのメッセージは本書でやっているごとくすべて言葉によって伝達され、それを真に受けた人間にある種の“真理”の言葉であると受け取られ、相応の影響力を発揮して信奉者を得たりする。

 つまり、言葉一般の真実性を全部否定しさるその自分の言葉だけは疑いのない真実だ、という暗黙の前提がここにある。すべて相対的で正しいものなどない世界でただ一人真理をつかんだ自分、という疑いのないナルシシズム。その根本的な遂行矛盾に気づいているのだろうか?

 読めばすぐに明らかなとおり、(前に扱った『人格改造』と同様に)世の常識的な言葉一般を否定し攻撃する著者は、そうやって自分の語る言葉に限ってきわめて愛着し信頼し、それを伝えることに大いに意味を感じていることは確実だ。

 先に明らかにした自分自身の動機を無いことにしようとする著者の欺瞞的な態度は、その “恥ずかしい” 根本的な自己矛盾を隠蔽するためのものであることが、ここに見て取れるだろう。



 したがって、そのいちいちの言葉をあげつらうのは、煙を手で掴まえようとするのと同じく無意味で、どこまでも後退して逃げる敵に正面から取り組もうとするのと同じくまったく非生産的だ。きっとそれはとても退屈な作業になることだろう。

 だから、そういう空虚な世界を見ている著者の視界の盲点を衝くこと、小さくて薄っぺらくて陰惨な物語を紡ぎ出している彼自身の物語を暴露し解体すること、喋ることに夢中でおろそかになっているその足下を払って引き倒すことに、ここでは集中することにしよう。



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by type1974 | 2005-09-28 14:08 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(6)

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“幻滅”の再会


 本書を人から借りることができ(有難うございました!)、十年以上ぶりにあらためて読んでみたが、記憶していた以上に浅薄で寒々しいという印象だけが残った。

 人の記憶というのは、その後生きてきた時間や、考えてきたこと、出会った人からの影響、等々によって後からかなり再構成されるものなのだと実感する。もう少し切実な「何か」がここに語られていたように思ったのだが。

 本書のほとんどのページは、自殺の方法、死に関するデータ、死者たちのそこに至る事情を、表面的に興味本位になぞることに割かれていて、距離を置いて見れば、その情報の刺激性でターゲットとしている購買層の興味をそそろうとしているのは明らかだ。

 また、一見乾ききっているようで、どこか人の歓心を買おうとしているのが随所にかいま見えるその語りや、死にたい気分を確実に増幅してくれるであろう温度ゼロのクールな装丁デザインが目を引くばかりで、批判すべき内容がそもそもどの程度あるのかすら、疑問に感じられてしまう。

 あまりにも薄っぺらであることに、かつてこの本に一定の影響を受けた者として、情けないものを感じるのである。こんなものを真に受けて死んだら確実に後悔しただろう(いや、死んだらもちろんこうして後悔もできない。『完全自殺』を読んで死にたい気分の方、ちょっと待ったほうがいい。これから説明するようにこの本はあまりにもかっこわるすぎるから!)。

 しかしそういう「内容」を最初から存在しないことにしようというのが、後で見るようにこの著者の姿勢なのだから、それはじつはしごく当然の印象なのである。

 そこに書いてあるとおり、死ぬのは、多分とても簡単だ。そして若い時分にはそれがとても刺激的な“真理”のように思えたものである。
 本書の死へのそそのかしに疑いも抱かず乗っかって、「いざとなったら首をくくってしまえばいいんだ。みんなはこの“真理”に気づかずアクセク生きてるにすぎない」と、妙な優越感みたいなものを感じながら、重くはないけれどもかなり本気で考えていたのが思い出される。

 ついでにいえば、「『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、…ちょっとは生きやすくしよう」というこの本の「本当の狙い」は、そういうかつての自分に関していえばまったく外れている。
 逆に自殺をそのように軽く捉えることによって、自分のいのち・存在も同じくどこまでも軽く感じられ、索漠とした気分はますます加速した。

 “より生きやすくするために自殺という選択肢を自分の中に認める”というのは、結局人の意識の本質というか方向性に反していて、主観的な事実として破滅的なのだと思う。

 なぜなら、そう捉えることによってあえて生きる根拠はさらに見失われ、自分の存在はますます軽くなり、逆に心は重くなるばかりだから。
 意識は社会から切り離され浮遊し、自分がそこに生きているはずのリアリティが壁の向こうに白茶けて見えて、自分がいてもいなくてもいい存在に感じられてしまうから。


 さて、今思えば、まさにかつての自分は、この本の著者の意図や出版社の販売戦略に、あまりにも簡単に乗せられてしまっていたということになるだろう。そう、あまりにも素朴に、素直に、疑うことなく。

 免疫がないというのは怖いことだ。それは身体にとっては生命にかかわるきわめて危険な事態を意味する。
 思考もまた言葉に乗って伝染するものだから、安易にこういう有害な言説に感染しないために、心にはそれに対抗する免疫としての思考内容が必要となるだろう。つまり心にも免疫、言葉を換えれば自我防御機制が存在するといえる。これは単なる比喩ではない。

 ぼくらの祖父祖母であれば(世代によるかも知れないが)、本書のような言葉に出会ったら即座に「そんなこと、神様(/仏様/天地自然/ご先祖様、バリエーションはいろいろあるものの人間を超えて見守っている何者か)に申し訳ない!」とびっくりして叫んだに違いない。
 彼らが大切に守っていた神話という心の免疫は、「自殺OK」というような破滅的な言葉の侵入につけ入る隙を与えなかっただろう。

 ぼくらは、ご先祖様たちが持っていた信仰をはなから非科学的だとバカにするよう条件付けられていて、免疫として心を守り支える言葉のシステムという、神話の本来の機能と意味を、もはやほとんど見失ってしまっている。
 それは時代状況としてやむをえなかったにせよ、喪失が喪失であることに変わりはない。

 そして近代化された鉄筋コンクリートの学校で、ぼくらは柔軟な子供時代、一日何時間・十何年にもわたって教室に座らせられ続け、突き詰めれば「すべてはモノだけで意味もクソもない」という結論に到ってしまうような、無味乾燥な“お勉強”をたたき込まれてきた。
 そういうわけで、「いのちの大切さ」というようなきれいでいてじつは根拠のわからないお題目を申し訳程度に聞かされながら、一方「自殺はとてもポジティブな行為だ」というような、破滅的な言葉の病原体に対して効果的な抗体を、ぼくらは少しも身につけさせてもらっていない。

 そうした心の空白、価値判断のマヒ状態は、人を何かの病気に感染させてそこから利益を得ようと狙う者にとっては、格好の隙となるだろう。
 そこに巧みにつけ入って、今でもこの『完全自殺マニュアル』を売りまくっている汚い人間たちがいる。「すべて価値など存在しない」という自分たちの価値を病原体としてばらまきながら、彼らはこの本によって多額の利益を吸い上げている。


 話を戻すと、そういうふうに「死ぬなんて簡単なこと」という考え方にある程度染まったつもりだったが、しかし社会に出、人の中で生き生かされてきて、そして必要なことは学びなおして、人生がけっこう生きるに値するものだと思えるようになると、この本は“自殺”をことさらにあげつらうことでいったい何が言いたかったのか、という感じになってきた。
 そしてそんなことを考えるのも日常の中で面倒くさくなって忘れ、いつしかこの本も手放していた。

 しかしいつもどこかで、この本の存在が気になっていたように感じる。
 この本の言葉の、冷たく切り込んでくるようなメッセージが心のどこかにひっかかっているような気がしていたのだ。

 そのことに違和感をおぼえたのも、こうして書いている動機のひとつとなっている。


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by type1974 | 2005-09-25 21:42 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(5)

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 これまで行なってきた『完全自殺マニュアル』を言葉で撃破し葬り去る試みの、本論に移りたいと思う。


 ようやく手に入った1999年発行の本書は、その時点で第82刷を記録している。
 書き始めるまで知らなかったことだが、これは隠れた超ベストセラーといって過言ではないだろう。

 現在どのくらいの版を重ねているのかは知らないし、正直言って知りたくもないが、これほど売れた本があまり古本屋に流通していないことからも、いまだ生きる自信を見失った多くの人が手元に持っていて、水面下で相当な影響力を持っているだろうことは推測できる。

 そして発刊以来、いったいどれだけの数の人間がこの本の「手引き」で死んでいったのだろうか。

 1993年初版の本だから、新奇なものが次々に出ては忘れ去られていくサブカルチャー系の出版業界にあっては、相当古いものに属するということになる(実際その内容も古くさいのだが)。

 しかしにもかかわらず、この本がすでにそれだけ無数に社会にバラまかれていること、そしていまだに売られ続けて、多くの信奉者やネット上の模倣者を産み続けていることを鑑みると、本書を内容的に亡きものにせんとするこのささやかな試みも、少なからぬ意味を持つものと信じる。

 このような病的にフラットで破滅的な言論がもてはやされる現代の無責任な風潮と、その底にあってぼくらが何となくこの世の裏の(つまり本音の)「真理」だと思い込まされている、近代主義-ニヒリズム。それらが深く根ざしているのは、ようするに「世界はバラバラのモノから構成されていて意味もクソもない」というような、もはやあまりに自明化し空気のようになった世界観・宇宙観=“コスモロジー”である。

 すなわち、ぼくらが物心ついて以来たたき込まれてきた、真実に見えるけれどもひどく退屈でじつはすでに決定的に古い、この社会の現行のコスモロジーを相対化することもまた、ここで意図している。

 そして、ぼくらがいつもいたるところで見かける、そのようなニヒリズムを社会に伝染させようとする企て(それこそ「意味もクソもない」はずなのだが)が、とりわけこの本ではきわめて露骨で典型的なかたちであらわれていて、その目的にあたってのいいターゲットだと思われた。

 これはまったくの大風呂敷であり、一方自分が現状非才なことは承知しているつもりだが、しかしメッセージはまず発することが大切であり、また微力はイコール無力なのではない。
 臆せず進んでいこうと思う。


 それにあたり第一に、この本において著者がメッセージらしきものを発していることそれ自体への根本的な疑問を明らかにし、その矛盾の追及を試みる。

 さきの『人格改造マニュアル』批判でそのことを明らかにしたが、ここでもいっそう際だつのは、著者の自覚されざる自己矛盾と途方もないナルシシズムである。
 ようするに彼は社会と人生のすべてを無価値でくだらないと斬って捨てながら、そう評価する自分の立場を相対化することがまったくできていない。

 そして第二に――これが本書についていろいろな指摘がなされながら、決定的に見落とされていると思われるところだが――このような言説が流通することの社会的な問題性を取り上げたい。
 それが社会にとってのいわば毒であり伝染病でありガンであることを、この際はっきりと認識しておこう。

 ポイントは、社会にとって何が悪(言葉を換えれば“ルール違反”)なのかという原則をはっきりさせることと、「自殺するのは読者の勝手」というような最近流行のきわめて安易な自己決定-自己責任論の欺瞞性を暴くこと、そこから“言論の自由”とは単なる恣意ではなく一定の枠と責任を自ずと伴うものあることを確認することにある。

 そしてここでも、本書のような言論活動を行うことそれ自体において、著者の自己矛盾は決定的である。社会のルールに安易に乗っかって守られながら、そのルール自体の基盤を掘り崩す企てを嬉々としてやっているからである。


 そのあとで第三に、「自殺はいけない」という価値判断ができるための、そしてそれを力強く説得できるための、妥当性のある有力な根拠を示していくつもりである。

 著者は常識的で通俗的なニヒリズム、つまりこの社会で「真理」とされている、すべてをバラバラに捉えるような人間観-世界観-宇宙観を暗に絶対化してある種のメッセージを発しているわけだが、それに真っ向から反する、最新の現代科学をもとにいま出現しつつある、世界の新しい見方・コスモロジーを突き付ける。

 これは根拠のない感傷的ヒューマニズムや単に思弁的なだけの弱々しいニヒリズム批判ではない。
 その新しいコスモロジーとは、検証可能で柔軟な現代科学の通説を根拠としており、次の時代の世界観としてきわめて有力な妥当性を持つと評価できるものである。


 なお本論は多くの点において、このブログがそれを紹介するのを半分目的にしている、『生きる自信の心理学』(岡野守也著、PHP新書)という本に依っている。
 とくに現代科学的コスモロジーに関する著者の考えと実践は、ぼくらが何となく感染させられてしまっている近代科学主義-通俗ニヒリズムを脱却するための、現在最有力な方法論だと思われる。

 興味のある方はぜひそちらをご覧いただきたい。


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by type1974 | 2005-09-23 14:07 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(4)

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4.心というリアリティの否定

 ところで、『完全自殺』に見られる荒っぽい還元主義、いわば人間機械論は、『人格改造』における心理技法などの列挙によって、逆にますますあからさまとなっている。心を外面の相関物・脳に折り畳み、単純に内面のリアリティの存在を無視しているのである。したがって、すべては「脳をいじる」ということになるわけだ。

 しかし脳科学が進めば進むほど、物質としての脳の研究によって心という別次元のリアリティを掴まえることができないことが明らかになってきているのは、著者も認識しているとおりである。
 つまり心というものが、器官としての脳に還元することができない、カテゴリーの異なるリアリティであることは、少なくとも現行の脳科学では否定できないのだ。

 加えて、現段階の科学が最も単純な動物細胞の一個すら、人工的に作り出すことができていないことに注意しよう。外面の脳とは、器官としての組織化-複雑化を究めたものである。それはもっとも単純・基礎的な細胞から始まって、神経組織、神経管、爬虫類的脳幹、哺乳類的脳、大脳新皮質、前頭連合野という多くのレベルを含んで超えて統合した、きわめて(知られている限り宇宙一の)精緻な階層構造のシステムなのであり、その機能については何もわかっていないことがわかり始めている、というのが現状のようなのだ。

 だから同書が一方でメカニカルに記述しているごく単純な脳機能の理解によっては、心について何一つ理解できたことにはならないのは言うまでもない。それは喩えていえば、パソコンを分解して配線のおおまかな仕組みを知って、大喜びで「自分はパソコンを究めた」と言っているような愚かしさに似ている。

 にもかかわらず内面を外面に乱暴に折り畳み、心は単純に脳に還元できるとすることよって、とくに「クスリ」の項に露骨に表されているように、人間は脳内物質の作用による快感をひたすら求める存在に貶められてしまっている。喜びの替わりにドーパミン、幸せの替わりにプロザック、というわけだ。意味や感動ややすらぎというような繊細で同じもののない内面のリアリティは、選ぶところのないモノトーンの快感に粗っぽく還元できるのだという。

 そしてそのようなフラットな人間マシーンにとって、悩みを忘れるために快楽を求めるのも、苦痛から逃れるために自殺するのも、同じ平面の問題であるというのはもっともなことだ。しかしそんなマシーンにいったい誰がなりたいというのだろうか?
 つまり、ことはよく見かける“唯脳論”的な新手の物質還元主義の問題であるわけだ。

 しかし、心は脳の生み出す幻想にすぎないとする人自身が、幻想であるはずの自分の意識の存在をまったく疑うことなく信頼しているように見える矛盾は、いったい何なのだろうか? その人は「幻想である」という自分の信念が脳のどこかに刻印されているのを指し示すことができるだろうか? そしてそもそも内面的な理解がなければ意味を成さないイメージや記号、言語や論理を駆使して、「内面とは幻想である」ということを、ぼくらに内面的に理解させようと押し付けるその意図とは、いったいどういうことなのか?
 そういう「幻想」をリアルというのではないだろうか?



5.「人格改造」の無自覚な動機

 ところで、本書の求めている人格改造の目指すところとは、いったい何なのだろう。
 一読して異様な印象を受けるのは、ページをめくるつど、次のような言葉がきわめて頻繁に出てくることである。その一部を挙げると:

 「変わること」「全くの別人格になって一からやり直し」「別人のように」「人格を変える」「生まれ変わる」「人格の全変容」「ガラリと変わる」「性格を激変させる」「脳をリセットする」「何もかも捨てて」「劇的に変わる」「世界を変える」「別人になる」・・・

 人格改造を読者に勧めているのだから当然といえば当然なのだが、しかしクールでシニカルな記述が続く中で、この点だけには熱気のこもった執拗さが感じられるのだ。単にテーマにかかわる表現というにとどまらない、とにかくいまの自分を根本的に捨て去ってまったく新しい人間になりたいという、書き手の強烈な願望がここに感じとれると思うのだが、どうだろう。

 ところで、新しい自分に生まれ変わりたい、まったく別人になりたい、ということは、いまの自分を捨ててしまいたいということ、つまり現状の自分をまったく受容・肯定・承認できていないということの裏返しである。成長・変容とは、いろいろ欠点もある自分をすなおに受け容れることで、古い自分を含んで超えるかたちで前進することだが、ここで言われているのはとにかく全面的な自己否定なのである。

 ではいったい自分を捨て去って、どういう人間に生まれ変わりたいというのか。これまたきわめて特徴的に、つぎのような言葉が本書のいたるところにちりばめられていて、率直に言って強迫的な印象を受けるのだ。一部を挙げよう:

 「明るい人間に」「ハキハキと」「爽快に」「どっしりと」「活発に」「元気に」「積極的に」「ハイに」「エネルギッシュに」「前向きに」「軽く」「外向的に」「社交的に」「行動的に」「覚醒する」「対人関係で円滑に」・・・

 ここに、明らかにどういう人間像が望ましいかという、著者なりの価値付けを見て取ることができる。いうまでもなく、これは競争をもっぱらとする現代の産業主義社会に適合的な、競争に勝つタイプの人格特性の羅列だ。現在の自分を捨て去って変身すべきは、いわば「成功したビジネスマン」というわけだ。

 社会の価値観一般を冷笑し挑発している本書が、産業社会の典型的な「望ましい人間像」に至上の価値を置いて、それを目指して汲々としているのは、きわめて皮肉なことに見える。そしてそれが著者自身の価値の物差しであることは明らかだ。無自覚な価値付けといってよいだろう。

 むしろ逆に、産業主義的な競争社会の価値観をあまりにも素直に真に受けた人間が、その価値尺度に沿うことができずに、そのような価値観で営まれている社会に反抗し挑発するようになる、もしくは自信を喪失して自殺を考えるというような、よくあるドロップアウトの構図がここに読みとれると思うのだが、いかがだろうか?

 産業主義社会の価値観とは、ここやあそこの会社にあるというものではなく、この社会全体にわたってそれと気づきにくいほど自明化・雰囲気化しているものである。
 そしてそれは、ぼくらがとりわけ学校で身につけさせられてきたものだ。それも個々の先生が押し付けたとかいう話ではなく、学校全体が暗黙の裏プログラムとして、産業主義でバリバリやっていくことのできる人間を大量生産する場だった、ということである。
 だから「のびやかに」「みんななかよく」というような表のプログラムはウソくさくて空虚に聞こえたのだろう。
 企業の業績と同じく、学校で競争と相対評価に基づく成績が至上の価値とされるのは、つまりそういうことであるはずだ。

 そういう学校において、プラスで健全であるとされる性格特徴は、もちろん「明るく」「活発な」「社交性のある」「外向的な」…というものだ。暗く内向的で友だちが少なかったりすると、それはとりもなおさずマイナスであり矯正すべき欠点とされる。

 経験のある方もいるだろうが、そういう「暗い」「内向的な」「社交性のない」生徒には、いまの学校の教室の雰囲気というのは暴力的に感じられるものだ。まして成績が悪かったりすると最悪である。人間関係のルールが成り立っていない状況で、役割もなくただ集まっているだけという無秩序・無目的な集団。裏プログラムの価値観に忠実に、教室では「明るく」「ノリがよく」「友だちが多い」ということが何より価値を持つ。

 たとえば休み時間に教室で一人で「浮いて」しまうことは危険である。一人でいてはならないが、しかし学校にはどこにも一人でいられる場所はない。とにかく集団に合わせて明るくノリよく会話を回さなければならない。そのためには自分を貶めて人を笑わせておくのが安全だ。社会問題とされる「いじめ」の要因は、こういう強迫的な雰囲気を帯びた教室的状況自体に内在する。

 「明るくノリよく人を笑わせる」というのは、こうした教室的状況で集団から浮かないようにぼくらが無意識に身につけた、条件反射化にまで到った処世術でありライフスタイルではなかったか。
 最近のメディア的ないわゆる「お笑い」を、自分はほとんど笑うことができない。その神経症的で強迫的な「人の笑いをとる」という若者の心性に、教室的状況の呪縛にいまだ囚われているのを見て取る思いがするからである。「お笑い」がつねに人を貶める「ネタ」に終始しているのはそのためだろう。

 そしてこの『人格改造マニュアル』全体に、そうした産業主義-競争主義が雰囲気化した、ぼくらが到るところで経験する教室的状況に、何とかして適応したいという痛々しい動機が隠れている。「暗く」「内向的で」「非社交的な」自分は全然ダメな人間で、「明るく」「外向的で」「社交的な」人間に生まれ変わらなければならない。これが本書に一貫した価値軸であるのは明白だ。そして著者は「適応」に必死である。(同書156頁、自己啓発セミナーの価値観に関する著者の言及を参照のこと)

 すなわち、著者は「社会システムなど完全に放っておけばいい」と強がってうそぶき、「身のまわりのことをチマチマやっているしかないのだ」と脱力を推奨しておきながら、一方で社会システムの要請する人間像に「適応」すべく、痛ましくもクスリから洗脳までを使って生まれ変わろうとして、無自覚なダブルスタンダードをやっているわけだ。

 その「明るく」あらねばならないとするオブセッションは、気持ちとしてはたいへんよくわかると言いたいところだが、しかし大の大人になってもいまだそれに囚われて、しかも無自覚にクールぶって斜に構えているのは、あまりにカッコワルイと言わざるを得ない。



6.総括

 以上見てきたとおり、本書において著者・鶴見済氏の書いている内容は、心に関する理論・技法の説明としてひどく浅薄である上、そのメッセージは彼の価値観にかかわる無自覚な矛盾と混乱の表れそのものであった。

 ようするに著者は、自分自身を「キチガイ」であり一貫した人格など持っていないと(これは言葉の上だけのポーズに見えるのだが)全否定して見せた上で、居直って社会を挑発する触法的な言及をくりかえし、自分が正しいと信じるニヒルに徹底した脱力的な生き方を推奨するために、ゴテゴテと「人格改造」の方法を並べ立てているのである。

 しかし、これまた到るところでよく見かける構図なのだが、すべては無意味であり自分は何も信じないとうそぶく者が、そういう自身のニヒルな「信念」を社会に伝播させようとする意図は、そもそも何なのだろうか? 本書の著者がそのことに大きな意味を感じているだろうことは確実だ。
 つまり最後に、著者がこの本を書くことを通じて結局何がやりたかったのか、という疑問が残るのである。

 以下はこれまで述べた『人格改造マニュアル』に関する批評の、主観的な総括である。

 考え方ひとつで人格が変わる、といいながら、この著者が一貫して自分の考えに固執しているのは明らかである。そして人間など脳をいじることでどうでも変われる、としながら、そう語る著者自身はまったく変わることができていないようだ。
 つまり、結局は何も変わりたくないのだと思われる。

 そして厖大な参考文献(と言うほどではないようだが?)がバックにあることを強調しているのに表れているように、知識を積み上げて固めることで、「自分には人の心がわかっている」と自己防衛しているように見えるのだ。

 殺人OKなどというような挑発的言辞が目立つのも、本書の語りの特徴だ。しかし、その挑発に乗らないで読んでみると、著者のニヒルな絶望感がはっきりと見えてくる。またそういう言動をすることで、歪んだかたちではあるが社会的に注目されたい、つまりは認めて欲しいという倒錯した心情がありありと見て取れるのである。

 また著者は「まえがき」で、「どう生きるかなんていうことはどうでもよくなってくるはずだ」といいながら、同時にそのこと自体が「重い重い問題」であることを認めざるをえなかった。そしてそのとおりに、こうした本を書いていること自体において、徹頭徹尾「どう生きるか」という問題にひどくこだわっているように見える。

 だからこそ、そこからいかに逃避するかを追求しているわけだ。
 つまり人間の生きる根本動機である自己成長衝動と、そして本来的な共同体感覚にもとづく社会形成、そのどちらもから逃避する手段があたかも存在するかのようにほのめかし、そして逃避すること自体を正当化しているのが、この本の主旨である。

 いうまでもなく、もしそのとおりに生きるとすれば、いずれ人生は絶望に陥らざるを得ない。そして絶望感を抑圧ないし見て見ぬふりをして、さらに逃避を続けようとする。これは文字通り絶望的な悪循環である。だからクスリによる逃避は破滅的なのだ。

 また著者はすべてに価値がない、どうでもいい、と居直りながら、一方で脱力してちまちま生きるようなことを「正しい」と、恣意的に価値判断をしている。しかしいったいそれが正しいとどうして言えるのだろう。一方で競争主義的な価値観は彼の中ではっきりとはたらいているのである。

 結局、人生の負うべき責任からひたすら逃避しそれを正当化するために、ひどく混乱したコンテクストに自身が囚われていることに無自覚なまま、浅薄な知識で武装し壁を築いて、世の中の常識一般を嘲笑し挑発する空虚な言葉の遊びを際限なく続けているというわけだ(「世の中しょせん『どうでもいい』ことばかり」)。

 ところで、安易に社会を攻撃する者には、往々にして同じ攻撃の矢が返ってくるものだが、そのとき著者はどう答えるのか、なかなか興味深いものがある。

 とはいえ人は、ともすれば自分の認識できる範囲こそが、世界のすべてであり人間の真実であると固執してしまうものだ。人間とは浅薄なものであり何者も信じ得ないという「信念」を持っている著者・鶴見氏のような人は、自身の無自覚な、存在しないことになっている「信念」に従って、それに反する論拠や事実をすべて無視し去るのだろう。


 『完全自殺マニュアル』を完全批判する準備として、同じ著者による本書を取り上げてきた。『完全自殺』が「人間なんてどうせそんなもの」「生きるなんてどうせくだらない」と一見クールに語りかけている背後に、このような語り手自身の、人間観・人生観に関わる、歪んだ意図と物語があるのに、ぼくらは注意をはたらかせる必要があるだろう。

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by type1974 | 2005-09-15 20:53 | 自殺

『完全自殺マニュアル』完全批判(3)

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 『完全自殺マニュアル』を批判する意図で書き始めたが、同書が手には入っていない状態であるためしばらく擱き、ここでは予備的に、古本屋で購入することができた同じ著者による『人格改造マニュアル』を取り上げてみたい。

 それは、著者・鶴見氏が「しょせん人間てのはこんなもんで、変われっこない」と、常識的・通俗的ニヒリズムに安易に乗っかるかたちでひどく矮小な人間像を描いており、それが『完全自殺』の主要な批判されるべきポイントのひとつであること、そして後発の『人格改造』のほうがそのことに関する著者の見解と偏向を、端的に表している思われたためである。

 以下、その人間像が心理学的な洞察に疎いものであること、流行の思想傾向に安易にもたれかかったものにすぎず、いつもどこかで見かけるようなチープで退屈でありふれた内容であることを、いくつかのポイントに分けて明確にしていきたい。なお細かい理屈上の説明は単に煩雑であるため避けている。



1.安易な知識

 同書では全体を通じ、「脳をいじる」方法として、薬物、洗脳、サイコセラピー等の技法が並列的に列挙されている。その説明はいずれもごく表層的で入門書の引き写しの印象があり、誤謬も多いと思われるものである(指摘するのも徒労の感があるが、たとえば「坐禅」の項の初歩的な説明は決定的に誤っている)。

 前半のクスリの項については知識がなく評価できないものの、社会常識を逆なでするような記述からは、おそらくマスコミ的な注目をひくためであろう計算が読みとれる。これはライターとしての独自性・個性を打ち出そういう苦しい努力なのだろう。しかしなぜここまで薬物に固執するのか? そのことは後で考えたい。

 公平のためにいうと、非合理な思考の修正し、自我の拘束が緩和されることで楽に生きようというセラピー論は、半分は正しくもっともだと思われるものである
 たとえば認知療法について、所収のごく初歩のエッセンスだけでも、実行すれば一定の鮮やかな効果があるのは確実と思う。ぼくらはそのような無自覚な認知の歪みに、ともすれば足をすくわれがちだからだ。

 しかし全体を通して言えるのだが、とりわけ心理療法に関して、著者はそのどれにも徹底していない。
 例えば認知の歪みの類型として、自分に対して決めつけを行なう「ラベリング」という典型的なものがある(「自分は○○と思うことが足枷になるのだ」)。そしてそのラベルを貼り替えて自分を楽にするのは、習慣づけさえできればけっして難しくないと述べる。

 にもかかわらず著者は、本書を通じて「キチガイ」という自己言及を繰り返している。もちろんそれは破滅的なラベリングである。認知の修正が不徹底なのか、それとも「キチガイ」とのラベリングに安住して変える気がないのか、さもなければ単に「キチガイ」であると人目をひくポーズをとっているのか、そのいずれかに相違ない。

 これは単に著者の姿勢の矛盾を皮肉っているだけではない。
 つまり、心理学・心理療法をアタマでお勉強として学んで、ちょっと書くことは簡単なことである。しかしそれらの学びにおいて常に問われるのは、理論・技法が自分や人に適用できるまで自分のものになっているかということである。
 表面的・概説的に知識を羅列して、「人間なんてこんなもん、変わるのは簡単だ」というのはあまりに安易なのである。

 同書の背後に大量の参照文献があることが(そのいずれもが悲しいまでに表面的・つまみ食い的・初歩的なものなのだが)著者にとってはかなり意味のあることらしく、「まえがき」にも「あとがき」にもそのことを得意げといった印象で書いている。
 たくさんの心理学の知識や用語で武装している自分は人間心理を究めた、というニュアンスが言外に読みとれると思うのだが、いかがだろうか。
 しかしそれは受験勉強レベル、ないしは「趣味の心理学」レベルの話である。

 すべて権威も価値もないとうそぶいている著者が、知識による権威付けという動機と、知性主義という隠れた価値基準を、しっかり持っていることを読みとることができる。



2.単純で平板な人間意識の理解

 また後で見るように、同書ではそれぞれの技法による「人格の全変容」ということを繰り返し強調しているが、それはひどく大げさである。人間の意識に関する理解があまりにも単純で平板すぎるのだ。

 たとえば認知の修正とは、自我意識のレベルでの「変換」にすぎず、あくまでセルフトークのごく一部を取り替えるものにすぎない。それも不徹底であればすぐに習慣化した認知の歪みにふたたび見舞われるだろう。意識の表層のほんの一部分を変換するのにすら、ぼくらは悪戦苦闘しがちだ。

 さらに重要なことだが、ここでは意識の深層構造が完全に見落とされている。
 表面的な対社会的自我の背後に、深層自我としての無意識、さらにもっと深い無意識の層があるのは、西洋の深層心理学の流れを見ても、東洋古代の智慧とりわけ大乗仏教-唯識の洞察を見ても、人類普遍的な事実といって差し支えないことだ。

 そしてそれら東西の知恵(厖大な文献的・臨床的証拠を含む)によれば、人格変容とは、無意識的な深層から、古い自我を含んで超えるかたちで生ずる人格的成長のことであり、さらに人間の心は驚くべき深み-高みにまで達しうるものなのだという。
 ただしそのためには厳密な理論・方法の適用と、長期にわたる持続的な取り組みが必要なのはいうまでもない。一時的な至高体験があっても、それが習慣化され深く人格化されていなければ、すぐに日常性の意識に戻ってしまうのだという。

 そのことをとっても、一時的な高揚感や感動が人格の全変容であるかのように過度に強調するのは、控えめに言っても誇大宣伝というものだろう。



3.「近代的自我」に関する矛盾と虚偽

 また、「本当の顔などない」「一貫した人格など幻想である」「どんどん人格を変えて使い分けていこう」という本書の基本的な主張は、「近代的自我」など幻想にすぎないというポストモダンの知的流行として、すでにぼくらが見飽きている言説をひどく単純化したものに他ならない。
 ようするに、近代的自我は人間の無垢の自然と本来的自由を抑圧する拘束具にすぎないという人間理解だ。

 しかしこれはあまりに表層的な人間観である。意識的・表面的な自我が、本人も気づくのが困難なほど深く無意識の深層に根ざしているのは説明したとおりだ。つまり、変動する自我意識の背後には、常に一貫した深層自我が存在するのである。
 それは、本書が安易なリラックス法として取り上げている坐禅をちょっと実践してみると、無意識のところから湧き上がってくる言葉に悩まされ続けて集中できないことで、すぐに実感的に理解できることなのだが。

 ところで、そもそも「仮面の交代」や「人格の変換」などと大げさにいわなくとも、表層的な人格の使い分けとは、ぼくらが社会生活をなんとか切り抜けていく上で日常当たり前にやっていることではないだろうか? そしてそれが巧みな人ほど世渡り上手ということになっている。

 一貫した人格というものが存在しないのだと仮定しよう。しかしそうすると、『完全自殺マニュアル』以降一貫したテーマで著作をものし、そこから多額の印税を得、他者から見れば一貫した人格として社会生活を送っているライターとは何者か? いつも同じスタイルで社会を挑発し、自己否定に居直り、人格の分裂に悩んで自殺をしたりせずにいる著者は、いったい誰なのか?

 それはさておき、人格の一貫性の破綻とはとりもなおさず精神病理である。そもそも一貫した人格が存在なければ人は社会生活を営むことができない。そして当然ながら社会生活を営まない人間は想定することすらできない。人間は本質的に社会的存在なのである。

 つまり社会に生きるぼくらは、「私」とはいろんな要素が統合された一貫した自己であること、言い換えれば「近代的自我」であることを否定できないはずなのだが、自らがその中で生きているはずの社会を忘れた、観念的で原子化された「個人」は、そのような曲芸ができると信じているらしい。

 その根本的矛盾に気づかぬふりをしているのか本当に気づいていないのか、同書は無邪気に薄っぺらい言葉の遊びを繰り広げているのである。

(以下続く)
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by type1974 | 2005-09-12 15:20 | 自殺