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『完全自殺マニュアル』完全批判(2)

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 これから何回かにわたって『完全自殺マニュアル』批判を展開していくが、ところで、このような軽いノリでかなりいい加減に書かれた本を、何のために目くじらを立てるかのように批判するのか、ここでその意図を明らかにしておきたい。

 まずその論理の拙劣さにもかかわらず、『マニュアル』のメッセージの影響力と危険性、そしてそのことの責任は、いまだ大きいということである。100万部以上売れているベストセラーであることは知らなかったが、さらに現にネットで検索してみても、『マニュアル』はいまだに売られ多くの信奉者を産み続けているらしいのだ(「何者も信じない」という人間と、それを信奉する多くの人という、いたるところで見かける不思議な構図)。

 危険性と責任に関して同書は、自殺の方法という単に事実的な情報を提供しているにすぎず、社会責任上何ら問題はない、自殺しようが読者の自己責任において「勝手にしてくれ」とうそぶいている。

 もちろん同書の内容は、既存の法令に抵触するものではないらしいし、現に堂々と書店で売られ続けてきたように、残念ながらぼくらの社会の一般的な倫理水準もこれを見過してしまってきている。現在に至るまで『マニュアル』に対しては多くの批判があったらしいが、いずれも「キモチワルイ」「あってはならない」という感情レベルのものであったようだ。

 ここで問うのは道義的責任である。同書が自己責任能力と判断能力の未成熟な中高生を中心とした若年層をターゲットにしていることは明らかである。そして多くの生きる意欲を見失っている精神的に未発達な若者に対して、ごく簡単に「死ねる」方法を提供しているということ、さらに実際それで自殺した人間が多く出たということは、どう言いつくろっても無責任な自殺幇助行為である。

 「単なる情報提供」の裏には、そういう自殺を煽るようなメッセージを真に受ける、生きる自信を見失った若者が多いという計算と、そして実際に死ぬ人間が出るだろうという推測がはたらいていたのは明らかである。目論見どおり、それによって著者も出版社も大いに潤ったわけだ。

 むろんニヒルに居直った著者も売上至上の出版社も、「道義」を問うたところで冷笑するだろう。残念ながらこの日本社会の現在の倫理水準はそれを問うことができていない。しかし道義とは、本来その人自身が気づかない深層の声が問うものである。著者・鶴見氏の生き様は今後そのことを証明していくだろうという意味で注目に値する(というか、現に証明しつつあるようだ)。

 ところで、自殺を当然のものとするそのシニカルで一見特殊に見えるメッセージが、実はこの社会の暗黙の共通感覚を単に暴露し先鋭化させたものにすぎないのは、すでに明らかにしたとおりである。そのような無意味感、脱力感は、とくに若い世代においてすでに行動の基調というか原理となっているものであって、何ら目新しいものではない。

 若年層による、一見不可解な問題行動の激増の背後に、そうした倫理的な「底づき」感があるのは、おそらく異論の生じないところと思われる。この『自殺マニュアル』を批判することは、そのような危うい雰囲気化した常識を問い直し、乗り越えることでもあるのだ。

 『マニュアル』に典型的に現れた思想的混乱は、粗雑な物質科学主義・還元主義と、集団という契機を忘れた個人主義的民主主義を基調にした現行の学校教育を受けて育った人間が、ふつうに突き詰めると最後に必ず到る隘路なのだと思われる。
 そういう学校教育の暗黙のプログラムが敷いたレールを、まっすぐ素直にたどっているという意味で、一見過激に見える著者の姿勢は、実はあまりにもありふれていて陳腐である。

 しかしそのような行きづまりを相対化し超える視点は幸いなことに存在する。それをもとに、古いものは古い、誤っているものは誤っていると、ここではっきりと断言する必要があると思う。

 さらに個人的な怨恨ということがある。かつてそのようなメッセージ(もちろん鶴見氏のものに限らず)を真に受け、「まったりと」脱力して若い日の多くの時間を無駄にし、手元の『マニュアル』でひょっとしたら死んでいたかも知れない自分、そして実際に死んでいった多くの自分に似た者たちがいるということ、さらにそういう錯覚を煽って恬として恥じない人間がいるということに、憤りを感じるのだ。しかしそのことは論旨とはまた別のことである。

 ところで、ここで批判者である自分のコンテクスト・意図を明らかにしておく必要があると思う。何を正しいことと考えるか、それをもとに何をどうしたいのか、というシンプルな問いが共有できていないと、そもそもあらゆる議論は成り立たないからである。

 自分はシンプルに、人が生きることの根本の動機とは、他者と仲良く、社会をよりよく、そして人生を意味深く、ということに尽きると考える者である。一見小難しく聞こえる思想というものは、その現実をあとから説明するために出てくるものであろう。また幸いなことに、そういうシンプルな事実を科学に基づいて思想的に裏付けることができるという時代に、ぼくらはすでに生きている。
 そしてそのことを阻害し退行と絶望に至らしめる、毒を含んだ短絡思考を批判的に見る、というのがここでのコンテクストである。
 これはあまりにナイーブに聞こえるだろうか?

 しかし表層的な価値観に右往左往し、深層から湧き上がってくるものに翻弄されながら、ぼくらが心から求めているのは、自覚できているとできていないとにかかわらず、実はそうした単純な人生の事実であるはずだ。そうでない人がいるのだろうか?

 そして、極端なニヒリズムで身構えた同書の空虚な論調の背後に、じつはそういう隠れたシンプルな願望があきらかにはたらいていることが見て取れるのである。ひじょうに歪んでしまっているために、著者本人も自覚できていないようだが。

 とまれ、「批判のための批判」というよくある不毛な泥沼に陥らないよう、自分の足元に気をつけて進んでいきたいと思う。
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by type1974 | 2005-09-10 23:46 | うつ

簡単な紹介の、つもりが

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 あっと、いろいろ書いていて、落ち込み克服の学びをお伝えしている途中だということを忘れてしまった!

 『生きる自信の心理学』(PHP新書)という本の、私の見るところの第一の特長ということを途中まで書いたところでした。
 それは私が今まで見たどの本よりも、「自信とは何なのか」ということの核心が掴まれているということです。そのことについて自分的にも復習をかねて、受け売りを書いてみたいと思います。

 まず自信がある・ないとか、落ち込んでしまうということのもとになっている心の構造がどうなっているかが、きわめて簡潔に説明されています。

 それは、
①私たち人間の自意識的な心は、主体である「見る自分」と、対象としての「見られる自分」にわかれていて、
②その「見る自分」は、「見られる自分」について何らかのセルフ・イメージをいだいており、それに対していつも内面のセルフ・トークでもって語りかけている、
③そしてセルフ・トークはセルフ・イメージにもとづいてなされ、またセルフ・イメージはセルフ・トークによって形成される、つまりイメージがトークを生みトークがイメージを育てるという、心の中の循環がつねに行なわれている、
④しかもその循環は、だいたいが無意識のパターンとして習慣化・自動化していて、かならずしも常に自覚されているものではない、

ということです。

 つまり、私たちは自分について「これが自分だ」というセルフ・イメージを持っており、「おれって○○だ」というセルフ・トークを行なっている、そしてそれがいつもぐるぐると心の中をめぐっている、ということですね。

 すぐにわかるとおり、その心の中のイメージとトークの循環が、持続的にプラスなっていれば自信があるということになるわけです。
 そしていうまでもなく、「ダメな・バカな・つまらない自分」というイメージをいだき、「ダメだ、バカだ、おまえはつまらんやつだ!」というトークで自分に語りかけ、そしてそれが習慣化していると、それがまさに落ち込みということになります。

 この構造は、現にいま自分の心がどういうふうになっているかをちょっと反省してみるだけで、「ああ、そうだ」と自覚できることではないでしょうか(というか、そうでない人がいたら教えてほしい)。
 当たり前すぎていつもは気づいていないだけで(つまり無意識化・自動化している)、しかしすこし内省すれば、いま自分の内面がそういうふうにはたらいていることはすぐに自覚されると思います。

 どうでしょうか。落ち込んでいるときって、まさにそういうふうな悪循環になっていないでしょうか。私は自分が落ち込んでいるときまさにそうやって悪循環にはまり込んでいるなと、ひじょうに納得してしまいます。
 ぐちゃぐちゃと思い煩っているときは、なにかひじょうにたいへんなことのように思われて解決不可能のように感じてしまいますが、ちょっと距離を置いてこの図式で見てみると、起こっていることはとてもシンプルです。

 つまり、気持ちが落ち込んで鬱状態になっているから、ネガティヴなセルフ・イメージに陥り、セルフ・トークが「もうダメ」となってしまうではない。
 まさにダメなセルフ・イメージとセルフ・トークが落ち込み・鬱をもたらしている、ということになります。

 この本にあるとおりに自分で実践してみて、少なくとも落ち込み・鬱ということに関しては、「タマゴが先かニワトリか」ではなく、明らかにトークとイメージが先、ということがよくわかってきました。
 (すると私たちは、自分がやっているイメージとトークによって日々自分の心を形成している、ということが言えてくると思うのですが、これはどうでしょうか?)

 つまり落ち込みや鬱は、単なる脳内の自然現象とか外界のストレス状況への反応なのではなく、セルフ・イメージとセルフ・トークによって自分が自分にもたらしているという側面のほうが、一般に考えられている以上に決定的だということになります。

 ようするに、「落ち込み・鬱を克服するためには、セルフ・イメージとセルフ・トークを修正し改善して、それを習慣化すればよい」というのが、シンプルな事実であるようです。

 とりわけ、すぐに実行できるのが、自分に言ってあげるセルフ・トークを肯定的なものにする、ということではないでしょうか。
 なんだ、ことはそんな簡単だったのか!(実践はけっこうたいへんだったりするのですが)

 それにしても、とくに自分に対して語りかける言葉が、このように落ち込みや鬱ということにとって決定的であることがわかってみると、自分が日常、いかに習慣的に無自覚に言葉を使ってしまっているかが痛感されます。習慣化したイメージから湧き起こるセルフ・トークに翻弄されているという感じです。それに気づいたら改善あるのみ。

 これは安っぽい自己暗示術や単なる励ましではないと思います。
 内面の言葉がいつものようにネガティヴなものになっていたら根気よくそれに取り組み、改善を積み重ねていくことでよりよい自己イメージを形成すること、それはまさに内面のトレーニングであるという印象です。

 言葉が単なる外界の形容や内面の表現のための道具なのではないこと、言葉は自分の心に対して意外にも強力にはたらいていることが、この本に載っているワークをやってみて「目からウロコ」的にわかったことです。
 心の中の言葉というのはおろそかにできないなと思わされます。人は聞いていなくても、自分の心はつねに聞いているのですから。

 この本では、自信とは単に自分の中だけで完結するものはなく、他者との関係においてこそよりほんとうの自信となるとされています。
 さらに、いちばん大きな他者である世界・宇宙の中に生きて生かされている自分にゆるぎない自信をもつという、ひじょうに壮大なセラピー理論というかビジョンが語られています。これこそが、単なるセルフ・ヘルプの本と思って手にとって、あとでびっくりだったポイントです。

 しかしそこに一貫しているのは、以上のようなセルフ・トークとセルフ・イメージの改善をどうするか、という方法論だと思われました。その「セルフ」とは、社会の中の自己であり、世界・宇宙の中の自己である、ということだと思います。

 冒頭の箇所の紹介だけでこんな長くなってしまいました。とりあえず買って読んでもらったほうが早いかな。
 でもちょっと受け売りでもちょっと付き合ってもらえるとうれしいのです。以下次回。
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by type1974 | 2005-09-01 02:43 | うつ

あ、ぜんぜん違うこと書いちゃった。

久々に映画を見てきた。「亡国のイージス」。いや~、映画ってホントにいいですね、という古いのは置いておいて、ちょっといろいろ感じるところのある映画でした。
まずミリタリー系の好きな人にはたまらない映像の数々! 国家機密のイージス艦の内部が見れるし(でもあれは全部セットなのだとか)、ミサイル発射の緊張感もとってもイイ。艦内生活の細部もリアルで、気合いの入った映画でした!
ただストーリーとか人物描写には、どうも、というかひじょうにすっきりしないものが。やっぱり映画っていうのはテーマとメッセージを語るものだと思うんです。
なにより「日本とは何か」「国を護るとはどういうことか」という問題意識がひじょうに鋭く描かれていながら、それに対する作り手なりの思い・メッセージというのは、ほぼ何も語られていなかった。
だから決起した海自の幹部(士官、とは言わないのですね)の心情がほとんど伝わってこない。なぜ立ち上がったのか、「この国は一回滅びてやり直さなきゃならないんだ」くらいの、ニヒルな厭世観でしかなかったようです。
彼ら幹部は、最新兵器に囲まれていながら、手が震えて拳銃一つ撃てなかったりする。朝鮮民族系の某国(って、二つしかないじゃん)のテロリストの口車に乗って、自国の僚艦を撃沈してしまう。
そうして、寺尾聰演ずる中心人物の副長は、信念と憂国の志がある風のカッコイイところを見せながら、途中で人情にほだされてコロッと「反省するいい人」になってしまう。いったい前半の気合いはどこへ行ってしまったのか? だから急に物語全体の緊張感とリアリティが弛緩してしまう。そういう背骨のないリーダーの役を、風采の上がらない彼はよく表現していたと言うべきだろうか。
いろんな場面でそうなのだけれども、そういう「この国とは何か」というテーマが、結局「いろいろあるけどやっぱり家族が大切なんだよ」「難しいことはいいからとにかく生きろ」的な家族-個人レベルの感情のお話しにすり替わってしまっている。それはヒューマンで涙は誘うけれども、話の焦点がちょっと違うでしょ、という感じにぼかされてしまっている印象。
では、その中心テーマをどう語るべきだったのだろう。うーん、それは難しいぞ。それにいろいろいってみたけど、今の日本で商業ベースに乗せて、かつそのことも語る映画なんて、無理な話だ。しかし娯楽スペクタクルとしても、話の必然性がどんどん軽く「うそくさく」なってしまっているのはいかんともしがたい。
エンディングクレジットを見るとどうも防衛庁・自衛隊の全面協力らしい。話題とPRになりゃなんでもいいのか? それとも皮肉な自己否定をしているつもりなのか?
ようするに「この国が好きなんだよ」って思いがその回答だと思うんですが、それを語るのってむずかしいんですね。この国では、いろんな意味で。
なんか見ていて、国民意識的に、落ち込んできちゃいました。
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by type1974 | 2005-08-12 03:11 | うつ