2005年 10月 15日 ( 1 )

『完全自殺マニュアル』完全批判11

著者の抱く「真理」


 この『完全自殺マニュアル』の著者が、社会不適応な人間の不幸と絶望、とりわけいじめを受けて自殺した人間の生き様・死に様に、特殊な関心を抱いているのは本文を読む限り間違いない。

 それは死んだ人間の内面にほとんど触れることなく外面的な自殺方法の“情報提供”に終始している本書が、そういう自殺者の場合に限って異例なコメントを発していることから読みとることができる。

 それにしても、著者・鶴見氏の、これら社会不適応な人間の死への執着は、いったい何なのだろうか? そしていじめ自殺のエピソードに示された、異例とも言える彼の関心は何を意味するのだろうか?

 とりわけ彼にとっていじめは、単に他人事であるだけでなく、本書の中でくり返し自分なりの人生観を表明して取り上げるに足る、とても興味深い他人事だったようだ。
 これらを、著者自らがどのような立場に立ってこの本を書いたかを推測する足がかりとしたい。

 人は価値観からくる偏向抜きで客観的に真実を語っているつもりになりがちだが、実際には自分なりのものの見方・事実の切り取り方から、どこまでも自由になれるものではない。
 そして忘れたつもりの自分の足場を衝かれると、往々にして強烈な反応を示したりしがちだ。

 では彼は自分でも無自覚に(もしかしたら自覚的に)どのような立場に立ち、そこから何を見ようとしているだろうか。

 漫画家・山田花子の例に見られるように、この著者は、いじめを受けるような暗くて内向的な人間は、この社会に生きるのにそもそも適さないのだと明言している。
 それはつまり、そういう人間は生来劣った存在であり、そもそも生きるに値しない生命であるという決めつけ・価値付けにほかならない。

 そういう言葉の前に「この日本社会では」「クラスという奇妙な集団で」などと、一見留保を付けているようであるが、しかしまさにそのような産業社会の競争主義や教室的な価値観をあまりにも真に受けているのがこの著者自身であったことは、すでに明らかにしたとおりだ。

 つまり“この社会”や“息苦しい教室”がそういう人々を生きるに値しないと見なすとは、彼自身が自分の視界を覆った色メガネをとおしてそう見なしている、ということにほかならない。

 しかも“生きる上で割を食うことがある”から“劣った人間である”さらには“生きるのに適さないので自殺が当然“の間には、極端な論理の飛躍があるのに、著者はまったく無頓着である。

 その間にはきわめて大きな隔たりがあるはずなのだが、それが存在しないことになってしまっているこの思考のあまりの短絡は、いったい何なのだろうか? 

 それを以下に明らかにしていきたい。


 確かにこのますますギスギスしつつある産業主義・日本社会の、たとえば明るくノリがよくなければならないような雰囲気がある教室で、そういうふうな内向的で能率的に動けない人間が健やかに生きていくことが難しいという状況があるのは事実だろう。

 ところがそこから一足飛びに、いじめられるのはとりもなおさず劣等な人間(「いじめられるヤツ」)であり、そういう必然な不幸を生来背負った劣った存在は自分で死を選んで然るべきだと、なぜか断定してしまっているのである。
 念入りにオブラートに包んではいるが、それらの言葉が指し示していることを読み取れば、ようするにそういうことになる。

 もちろんそういう状況に陥った場合に、他に採るべき道はいくらでも存在する。
状況から退避すること、学校に行かないこと、人間的に成熟した大人の第三者に間に入ってもらうこと、人間関係を調整すること、本人が心理的に拒否できる能力を身につけること、等々。

 しかしこの著者にとっては、競争主義的・学校的な価値の枠組みを外れた選択をすることなど、最初からありえないらしい。

 つまり、こうした事例を取り上げることで、適者生存の競争社会で生きるに適さない人間は自分を廃棄処分にして然るべきだ、という彼自身のテーマを語りたいのだろう。
 要するに彼は、この社会とはきわめて単純な弱肉強食の構造にほかならないと言いたいのである。

 そうして彼は、「自殺とは…自然淘汰の一手段である」という、19世紀、つまり前々世紀(!)の自殺研究家の言葉をもっともらしく引いて、それは「間違いなく当たっている」と、もはや前提自体があやしい断定をする。

 二世紀も前の社会ダーウィニズムの言葉が彼にとって疑いのない真理というわけである。そんな科学的根拠のもはや疑わしい理論が、かつて自民族の人種的優越を正当化するナチスのお気に入りだったのは、記憶にとどめておいたほうがよいだろう。

 著者の中では、いじめという学校的な特殊な現象は、かつてダーウィンがイメージした素朴な自然の掟の露骨な縮図であるらしい。

 この本のいたるところに見て取れるように、著者自身がそういう弱肉強食・適者生存的な競争主義の価値観にひどく囚われている。
 そしてその記述に即して考えれば、彼はそういう価値尺度から“弱者”を設定し、明らかに自分自身を強者の側に置いて、その運命について発言しているのである。


 しかもこの著者にきわめて特徴的なのは、その価値軸がここでも”強い=明るく適応的/弱い=暗く不適応的”という単純図式であることだ。

 しかも暗く内向的、即劣等という価値付けの根拠が説明されることはない。それは著者にとっては説明するまでもない自明のことであるらしい。

 前に取り上げた『人格改造』が、暗くて内向的な自分が明るく外向的に生まれ変わる、という方向性への著者自身の強烈なこだわりに貫かれていたことを思い出そう。
 そこから、彼がなぜこの『完全自殺』で、ことさらにいじめにかかわるエピソードを取り上げているのかが見えてくる。

 つまり、本書のいじめ自殺に関するこだわりとは、彼自身が学校的価値観にいまだに囚われていることを雄弁に物語るものにほかならない。
 そして“明るい/暗い”というような二分法的な価値軸とは、以下に述べていくように、まさにそういう学校に詰め込まれている生徒らにとって、空気化・自明化しているものなのであった。

 そのような自らのうちにある弱肉強食の学校的価値観・教室的状況の図式において、著者はある立場を取ろうとしているのが、この本の軽々しい記述からあからさまに見て取ることができるのである。

 その立場とは、教室でのいじめる側のそれと同じものである。以下、そのことを掘り下げていきたい。


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by type1974 | 2005-10-15 12:54 | 自殺