2005年 10月 07日 ( 1 )

『完全自殺マニュアル』完全批判(10)

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死にゆく者への目線


 ここでは、自殺を刺激的な情報として語っている本書が、自殺した人間をどのように語っているかを見ていこう。
 見てきたように、この本は自殺の方法論については多くの紙幅を割きながら、それを実行した人間の内面にはほとんど踏み込んでいないのだった。

 しかしその中で、著者が人生観めいた感想と自殺者に対する共感らしきことを述べている異例の箇所が、いくつかあるのが目を引く。
 とりわけ漫画家・山田花子の死についてのエピソードをはじめ、いじめによる自殺に関してそういったコメントが目立つことから、著者の関心がどのあたりにあるかをうかがうことができよう。

 山田花子というと漫画家はひじょうに特殊な自分の世界を描いた作品で一部に知られている(最近は同名の芸人のほうが有名になっているが)。
 実を言えば絵はたいへんまずいし、ストーリーはあってないようなもので、これをそもそも読む対象としての漫画作品ということができるのかは疑問があるところだ。
 しかし、同じような心の傾向を持った人間には、その作品は痛いくらい“わかるなあ”と思わされるものである。

 その傾向とは対人恐怖というきつい心の歪みのことだ。
 彼女はそのひどい症状に悩まされて、社会との接点を見いだせないまま、結局24歳で飛び降り自殺をして果てた(92年)。

 彼女は死ぬ直前まで、自分が人との関係を結べないことを文字通り死ぬほど恥じつつ、これだけが自分の世界なのだというふうに、執拗に一貫して自分の対人恐怖をテーマに描き続けた。
 その醜いまでの自己暴露は、対人恐怖の人の見ている世界を窺うにあたって、ほんとうに希有なものだと思う。彼女はそれをごまかすことができなかったようだ。

 例えば太宰治の『人間失格』は、そういう対人恐怖の主観的世界を描いた文学作品とされるが、そこには対人恐怖という心の歪みに距離を置き、物語として美化する余裕が感じられて、ひどく甘ったるい印象が拭い切れない。
 文学人として自己確立し社会的関係を結ぶことができた彼の病とは、おそらく対人恐怖と別種のものだっただろう。

 文学的にはもちろん較べるべくもないのだろうが、こと対人恐怖という点において、自己美化とかナルシシズムの入り込む余地がまったくない山田花子の描写のほうが、はるかにリアリティと実感が込められていて、迫力がある。

 ほぼすべての作品に共通しているのは、人との接触にひどく取り越し苦労し、かといって人との接触を断つことができず、その中間でどうふるまっていいのか途方に暮れている姿だ。

 そうして、あまりにも自意識過剰で人と関係を作ることができず、そのことをひどく恥じ、自然にふるまうことができず友達を作れない自分はダメ人間なのだと、徹底的に自虐し続ける。
 その常に変わらないテーマは結局“友達がいない”ということだったと思う。
 そして、友達を作って自然に生きているすばらしい他人と、それができないまったく劣った自分、という自己確認が、作品の主要動機に見える。

 一言でいって、ひどく痛々しい。そんなに足りないところを凝視ばかりせずに、視点を外して自分を楽にしてやればいいのにと思われるが、若い彼女にはそんな余裕がなかっただろう。
 学校を出てみると、友達なんかいなくても、生きるのにはぜんぜんOKだということに気づくのだが。

 彼女がそのことばかり気にしている様は一見極端で異様だが、しかし友達がいないと自分の存在自体がやばくなってしまう教室的状況というのは、わかる方も多いだろう。
 “友達がいない”などということは、結構な歳になっても口にするのが難しかったりする。

 学校の教室で、やることのない休み時間、一人でいるような人間は、ほとんど“アンタッチャブル”扱いではなかっただろうか? 
 教室には、無内容な“明るさ”を基準とする人間関係のヒエラルキーがたしかに存在した。そういう事情は今も変わっていないのだろうか?

 彼女の場合輪をかけてきつかっただろうと思われるのは、そういう教室でかなり手ひどいいじめを受け続けていたらしいことだ。そういうミもフタもないいじめの様子も彼女の漫画に繰り返し登場する。
 『完全自殺』の記述を信じる限りは、卒業後も彼女はそういう人間関係のパターンをくり返し、まともな社会生活を送ることができない中で、自殺に到るまでそういう自己確認的な漫画を書き続けたらしい。

 みなと同じように人と関係を結びたい…自分にはそれができない…人並みに人間関係を結ばなければならない!…でもできっこない!というような、常に同じパターンの悪循環のくり返しにひどく囚われているのを、読者はその漫画から、いやというほど窺うことができるだろう。

 いろいろな要因はあるのだろうけれども、彼女がはまりこんでしまった悪循環とは、おそらくそういう教室的な状況でいじめをうけながら、毎日毎日、いやというほど直面させられて身についてしまったものなのだろうと推測される。

 山田花子作品については、この『完全自殺』でその存在を知って、さっそく買って読んだと記憶している。そしてそのつらさの強弱の度合いはともあれ、どこまでいっても続く醜い堂々巡りの暴露に、これはまさに自分のことが描いてあると思ったものだ。
 いたるところが自分にも思い当たって痛いような感じがする一方、自分と同じ種類の人間がいるのだと確認できたような気がした(といって安心は全然できなかったが)。

 そういう彼女の死のストーリーについて、本書は異例の4ページを割いて、人生の教訓めいたコメントともに紹介している。他に同じような扱いを受けている自殺者の記事がないことから、彼女のそういう生き様・死に様は著者の関心を強く引いたことが窺われる。
 それでは、本書はその彼女の死をどのように扱っているだろうか。

 「彼女の一生は他人の視線に怯え続けた人生だった…彼女の苦悩には、計り知れないものがある」
 そういったセリフで、一見彼女の苦悩に寄り添っているように見えるが、よく読むとむしろ共感とは別種の冷たい感情がそこにはたらいているのを、読者は見て取ることができるだろう。

 そのコメントを要約すれば、「彼女は生まれながらに暗く内向的で、常にいじめられ続けてきた。そういう弱者としての運命を抱えた彼女が自殺を選んだのは正しい選択であった。それがこの世の必然なのだ」ということになるだろう。
 そして作品の中の絶望の言葉を引いて(「イヤなら自殺しちまえ」)、そういう“諦念”こそが人生の真実なのだと述べる。

 しかし著者が彼女の対人恐怖を理解しているようにはまったく見えない。あくまで他人事にすぎないとしか読めないのだ。
 そこには、弱い人間は生来そういうふうにできていて、そして人間は終生変わり得ないのだという、先の本で見たとても狭くて浅い認識がある。

 すなわち、彼女の描く症状の部分だけを見て、そこから来る認識の歪みと、惨めさと裏腹な強がりだけを、彼女という人間の本質だと捉えている。そういう実体としての病そのものである彼女は、われわれ正常人とは別種であり、この社会では生きるに値しないと言わんばかりだ。

 しかしそうしたこの病の奇異な様は、じつは表面に現れたものにすぎない。
 そういう対人恐怖の表面上に表れた人間関係の不能の背後に、他者との関わりを痛切に求める本音があるのに、この興味本位の観察者は気づくことがない。

 見る眼があれば、彼女の作品のどのページにも背後にそういう切望があることをはっきり読みとれるのだが、このシニカルな著者がそれに気づくことができないのは、考えてみれば当然のことであっただろう。

 そういう人とのつながりを切望する本音と、裏腹な対人能力への強い羞恥心、関係の中で心理的なまとまりを保てない人格の未成熟さ、親しい関係を求めながらもそれができない自分を反省しすぎて自己非難してしまう過剰な自意識、それらこの病の中核にあるものに、この皮相な観察者はまったく疎い。

 ここに、病気がその人自身の本質であるかのような転倒した捉え方が見られる。それは、心の病とは生来のものでそれ自体としてずっと変わることがないという、無前提の実体視に他ならない。
 さきの『人格改造』の人間=機械観が、ここでも暗黙の内に前提とされている。壊れた機械は修理不能、というわけだ。

 ここでは心の回復ということにも、それを追求する臨床心理学・心理療法についても、一言も言及されていないことに注意しよう。
 症状のレベルによって困難はあるだろうし、現在の日本に有効な社会資源が少ないという事情もあるが、心の病は回復が可能である。

 にもかかわらず、この著者にはそのことが見えていない。いや、見ようとしていないというべきか。
 結局、“人は自分の心をどうすることもできない”という自分の間尺に合わせて、“観察対象”を自分の見たいようにみているにすぎないのだ。

 このように、明らかに著者にとっては、いじめも対人恐怖も視線恐怖も、自分に関わるものではなくあくまで他人事である。
 そういうふうに誰か自分とは関係のない弱い人間の特異なストーリーとして、クールに興味本位に観察して語っていることに、読者は注意する必要がある。

 そしてその死を、自分が社会から無批判に取り入れた価値観(暗く内向的=劣等・無価値)にそのまま当て嵌め、弱者の運命と必然の自殺という、短絡的で安易なストーリーに組み立てている。

 その背後に著者自身のどのような意図があったのか、次に見ていきたいと思う。


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by type1974 | 2005-10-07 14:36 | 自殺