2005年 10月 03日 ( 1 )

『完全自殺マニュアル』完全批判(9)

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彼自身の理由


 さて、このように著者自身が本書のメッセージを欺いて、なぜか生きのびているのである。

 だとすれば、著者がいまだ「勝手に」生きているのは、本書で彼が語っていない、というか当然語ることのできなかった、暗黙の理由なり意味感覚があるからに違いない。

 つまり、「この生きるに値しない世にあって自殺はとてもポジティブな行為で、しかもとても簡単だ」ということを語りながら、自殺することなく人生を続行するというとても器用な綱渡りができるためには、“語ってみせたクールなタテマエ”と“生きていられる実態というリアルなホンネ”、すなわち著者なりの人生の二重基準が存在するとしか考えられない。

 そして、当然ながらそのタテマエとは自分に関係のない他人に限って適用される、というわけだ。

 これは推測だが、曲がりなりにもライターとして大ヒットを当てると、後続の著作を出して安定収入を得ることができ、自分の名前が世間に流通し、マスコミで発言する機会が出てきたりする。そしてそんな彼の言葉を真に受けてしまうような信奉者がそれなりに出てきたりすると、人間の本来自己愛的な傾向の強い深層自我は大いに刺激されて肥大するのではないかと思われる。

 そしてそこに、彼が否定してみせた“生きる意味”を感じたりしているのではないだろうか?

 これには根拠がある。
 それはとりわけ、『完全自殺』から三年後に刊行された『人格改造』のほうに、はるかに自己言及的で自己愛的と読める記述が多く見られることにある。
 前者においては一見観察者に徹しきった視点をとって自分を打ち出すことを抑圧していたのに比べて、後者では著者はずっと主体的・能動的で、“自分を癒す”ということが主眼になっているのだ。

 すなわち、『完全自殺』が著者の抱えている人生観にかかわるメッセージの表明(自殺の誘いはその手段)だったとすれば、『人格改造』は著者自身を表現することが目的(“改造”のテクニックはその手段)となっていると読める。

 もっぱら自分自身を表現しようという意図とは、この場合歪んだ自己愛の営みに他ならない。そのような表現に意味を感じるなどということは、彼の当初の言葉を額面通り受け取る限り、ありえないはずなのだから。

 穿った読みをすれば、この間の『完全自殺』の“大成功”に気をよくして、自分の語る言葉にある種の自信を得て、後続の著作ではより自分の思いを打ち出してきている、という印象がある。
 そしてそこでは、見てきたように、どれほど否定的で悲しいまでにフラットなものであったにせよ、彼なりの生きる根拠を掴もうとして必死なのであった。


 よくは知らないし、あまり知りたくもないのだが、どうも『完全自殺マニュアル』の著者・鶴見済氏はまだどこかに生存していて、何か著作活動などもしているらしい。
 ここに滑稽だが笑えない、根本的な矛盾と欺瞞がある。

 まるで、資本主義の転覆をアジる痛烈な演説をぶった元学生活動家が今や有名一流企業の管理職をやっているような、若者に“大義のため”と特攻での死を命じた司令官が戦後天寿を全うしたような、最終解脱と世界の救済を標榜して無差別テロを実行した教祖サマと幹部らが法廷で醜態を晒しているような、それと同じ虚脱感。
 語った言葉のすべてがウソだったことを自らの生き様で証明する、卑怯だけど腹を立てるのもむなしく感じられてしまう、あまりに人間くさい人物たち。

 いや、そもそもこの著者の小さな物語は最初から虚脱感と虚偽に満ちているので、そういう皮肉も成り立たないのであった。

 むろん自分の考え違いに殉じて死ぬのは悲しくてロマンティックな愚か者だ。しかしそれでもいくばくか、自分が語った言葉への責任と誠意とが感じられるというものだろう。
 ぼくらが映画や小説の結末などで目にするそういうタイプの死は、だからこそドラマになり、共感や感動をそそることになっている。

 それどころか、この国には“自決”という観念と風習が、意外に最近まで存在した。
 言葉で交わした信義を個人としての自分の生命よりも重んじるその生き様は、そういう時代からは価値的にもはや遠いところにきてしまっているぼくらには到底真似しがたいものだけれども、それでもある種の高潔さを実感することはできる。

 そう感じさせるのは、彼らが保持していた信仰やイデオロギーの内容自体ではない。
 そうではなく、彼らが小さな自己保身や執着を捨て、自分の全心身を挙げてその“大きな思い”そのものとして生き、いのちを賭けたからだろう。それが「言行一致」という言葉の本来の意味だと思われる。

 それに較べるべくもないのだが、「生きるなんてどうせくだらない」「もう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」と吹聴しながら、『完全自殺』刊行後10年以上を生きおおせ、社会を拒絶するポーズをとりながらその社会のある種の波にしっかりと乗り、判断能力の未熟な若者や自殺志願者および実際の自殺者から今も多額の印税収入を吸い上げているライター・鶴見済氏の存在は、おそらく意識的と思われるその自己欺瞞のゆえに、限りなくインチキくさい。

 「恥を知らないのか」とぶつけても、たぶんむなしく響くだけだ。
 先に見たように、彼は自分の言葉など最初から全部ウソだとどこまでも逃げ続け、自分が内に抱え込んでいる空虚に向かってかぎりなく退却していくだけだろうから。

 責任からの逃避と自己解体による退行を人生の真理と考える人間には、恥という概念はそもそも存在しないに違いない。
 恥というのは自分のそういう無惨な有様を省みる視点があってはじめて生まれる感情なのだから。


 ただ、もし著者がこの本で表現しようとした、価値観にもならないような混迷しきった価値観をいまだ抱え込みながら、それを世間にバラまきつつ“おめおめと”生きているのであれば、結局はどこかで行き詰まってしまうだろう。
 それは、そういう価値観が、本論全体を通じて見ていくように、人生の理に合わないいわば錯覚にほかならないからだ。

 そして彼が自身の錯覚に追い込まれて、実際に安易な死を選んでしまうのではないかという予測も十分成り立つ。

 たとえば、最近自分が書いた“思想”に行き詰まって自殺した、見沢知廉氏のように。
 彼もまた、その著作のいたるところで自殺を暗示していたと思う。

 考えてみれば、もっぱら根深いナルシシズムを書く動機として多くのムリを抱え込んだまま、ある種の価値観を伝播させようとニヒルに居直って社会の常識一般を挑発し、世を注目させつつ顰蹙させるその姿勢は、じつに両者共通していないだろうか。

 読後の印象がどちらもおなじような、とても饒舌な言葉とその半面の空虚感であるのは、読んだ方はよくご存知だろう。

 ところでこう書いている自分は、どんなに劣悪で害を及ぼす存在であっても、だからといって死んでいい人間などこの世にはいないと、心底思えるように目下努力している。

 あとで紹介するように、科学と理性を含んで超えて、どんな人間にも根本的に生きる理由と意味があるということの宇宙的根拠を語ることができる時代状況に、ぼくらはすでに生きているからだ。

 しかし、心に深く染みついたばらばら思考のニヒリズムを脱却するには、ちょっとアタマで考えるだけではまったく不十分で、意図的で持続的な内面の作業と、それを腹に収めるための相応の時間が必要らしい。

 そのような発達途上の自分が、常時・心底・無差別に、“どんな人間にも生きる理由が与えられている”と思い切れているわけではないことは、ここで認めておく必要があるだろう。

 さもないと、この『完全自殺』の著者と同じく、自分がうまいこと語ってみせた言葉を、じつは全然生きていないというような、よくありがちな恥ずかしい自己欺瞞に陥ってしまうだろうから。

 そうならないために、たとえすべて言葉による理念のとおりには生きられないにせよ、少なくとも語った言葉と自分の現実との間の距離を、たえず振り返って確認しておく必要があると思うのだ。
 そしてその距離にこそ真実が存在するのだと思う。

 そういうわけで、ライター・鶴見済氏が、この本を出すことでどれほど世に毒を放ち、そのメッセージによって多くの若者の死を煽って社会的に損失を与えつづけることで、いわば(単に公衆衛生的な意味で)“社会のガン”と化していようとも、そんな彼にも人間としての尊厳と人生を生きる何らかの意味が与えられているのだと考えるべく、努力をしているつもりである。


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by type1974 | 2005-10-03 16:21 | 自殺