『完全自殺マニュアル』完全批判(3)

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 『完全自殺マニュアル』を批判する意図で書き始めたが、同書が手には入っていない状態であるためしばらく擱き、ここでは予備的に、古本屋で購入することができた同じ著者による『人格改造マニュアル』を取り上げてみたい。

 それは、著者・鶴見氏が「しょせん人間てのはこんなもんで、変われっこない」と、常識的・通俗的ニヒリズムに安易に乗っかるかたちでひどく矮小な人間像を描いており、それが『完全自殺』の主要な批判されるべきポイントのひとつであること、そして後発の『人格改造』のほうがそのことに関する著者の見解と偏向を、端的に表している思われたためである。

 以下、その人間像が心理学的な洞察に疎いものであること、流行の思想傾向に安易にもたれかかったものにすぎず、いつもどこかで見かけるようなチープで退屈でありふれた内容であることを、いくつかのポイントに分けて明確にしていきたい。なお細かい理屈上の説明は単に煩雑であるため避けている。



1.安易な知識

 同書では全体を通じ、「脳をいじる」方法として、薬物、洗脳、サイコセラピー等の技法が並列的に列挙されている。その説明はいずれもごく表層的で入門書の引き写しの印象があり、誤謬も多いと思われるものである(指摘するのも徒労の感があるが、たとえば「坐禅」の項の初歩的な説明は決定的に誤っている)。

 前半のクスリの項については知識がなく評価できないものの、社会常識を逆なでするような記述からは、おそらくマスコミ的な注目をひくためであろう計算が読みとれる。これはライターとしての独自性・個性を打ち出そういう苦しい努力なのだろう。しかしなぜここまで薬物に固執するのか? そのことは後で考えたい。

 公平のためにいうと、非合理な思考の修正し、自我の拘束が緩和されることで楽に生きようというセラピー論は、半分は正しくもっともだと思われるものである
 たとえば認知療法について、所収のごく初歩のエッセンスだけでも、実行すれば一定の鮮やかな効果があるのは確実と思う。ぼくらはそのような無自覚な認知の歪みに、ともすれば足をすくわれがちだからだ。

 しかし全体を通して言えるのだが、とりわけ心理療法に関して、著者はそのどれにも徹底していない。
 例えば認知の歪みの類型として、自分に対して決めつけを行なう「ラベリング」という典型的なものがある(「自分は○○と思うことが足枷になるのだ」)。そしてそのラベルを貼り替えて自分を楽にするのは、習慣づけさえできればけっして難しくないと述べる。

 にもかかわらず著者は、本書を通じて「キチガイ」という自己言及を繰り返している。もちろんそれは破滅的なラベリングである。認知の修正が不徹底なのか、それとも「キチガイ」とのラベリングに安住して変える気がないのか、さもなければ単に「キチガイ」であると人目をひくポーズをとっているのか、そのいずれかに相違ない。

 これは単に著者の姿勢の矛盾を皮肉っているだけではない。
 つまり、心理学・心理療法をアタマでお勉強として学んで、ちょっと書くことは簡単なことである。しかしそれらの学びにおいて常に問われるのは、理論・技法が自分や人に適用できるまで自分のものになっているかということである。
 表面的・概説的に知識を羅列して、「人間なんてこんなもん、変わるのは簡単だ」というのはあまりに安易なのである。

 同書の背後に大量の参照文献があることが(そのいずれもが悲しいまでに表面的・つまみ食い的・初歩的なものなのだが)著者にとってはかなり意味のあることらしく、「まえがき」にも「あとがき」にもそのことを得意げといった印象で書いている。
 たくさんの心理学の知識や用語で武装している自分は人間心理を究めた、というニュアンスが言外に読みとれると思うのだが、いかがだろうか。
 しかしそれは受験勉強レベル、ないしは「趣味の心理学」レベルの話である。

 すべて権威も価値もないとうそぶいている著者が、知識による権威付けという動機と、知性主義という隠れた価値基準を、しっかり持っていることを読みとることができる。



2.単純で平板な人間意識の理解

 また後で見るように、同書ではそれぞれの技法による「人格の全変容」ということを繰り返し強調しているが、それはひどく大げさである。人間の意識に関する理解があまりにも単純で平板すぎるのだ。

 たとえば認知の修正とは、自我意識のレベルでの「変換」にすぎず、あくまでセルフトークのごく一部を取り替えるものにすぎない。それも不徹底であればすぐに習慣化した認知の歪みにふたたび見舞われるだろう。意識の表層のほんの一部分を変換するのにすら、ぼくらは悪戦苦闘しがちだ。

 さらに重要なことだが、ここでは意識の深層構造が完全に見落とされている。
 表面的な対社会的自我の背後に、深層自我としての無意識、さらにもっと深い無意識の層があるのは、西洋の深層心理学の流れを見ても、東洋古代の智慧とりわけ大乗仏教-唯識の洞察を見ても、人類普遍的な事実といって差し支えないことだ。

 そしてそれら東西の知恵(厖大な文献的・臨床的証拠を含む)によれば、人格変容とは、無意識的な深層から、古い自我を含んで超えるかたちで生ずる人格的成長のことであり、さらに人間の心は驚くべき深み-高みにまで達しうるものなのだという。
 ただしそのためには厳密な理論・方法の適用と、長期にわたる持続的な取り組みが必要なのはいうまでもない。一時的な至高体験があっても、それが習慣化され深く人格化されていなければ、すぐに日常性の意識に戻ってしまうのだという。

 そのことをとっても、一時的な高揚感や感動が人格の全変容であるかのように過度に強調するのは、控えめに言っても誇大宣伝というものだろう。



3.「近代的自我」に関する矛盾と虚偽

 また、「本当の顔などない」「一貫した人格など幻想である」「どんどん人格を変えて使い分けていこう」という本書の基本的な主張は、「近代的自我」など幻想にすぎないというポストモダンの知的流行として、すでにぼくらが見飽きている言説をひどく単純化したものに他ならない。
 ようするに、近代的自我は人間の無垢の自然と本来的自由を抑圧する拘束具にすぎないという人間理解だ。

 しかしこれはあまりに表層的な人間観である。意識的・表面的な自我が、本人も気づくのが困難なほど深く無意識の深層に根ざしているのは説明したとおりだ。つまり、変動する自我意識の背後には、常に一貫した深層自我が存在するのである。
 それは、本書が安易なリラックス法として取り上げている坐禅をちょっと実践してみると、無意識のところから湧き上がってくる言葉に悩まされ続けて集中できないことで、すぐに実感的に理解できることなのだが。

 ところで、そもそも「仮面の交代」や「人格の変換」などと大げさにいわなくとも、表層的な人格の使い分けとは、ぼくらが社会生活をなんとか切り抜けていく上で日常当たり前にやっていることではないだろうか? そしてそれが巧みな人ほど世渡り上手ということになっている。

 一貫した人格というものが存在しないのだと仮定しよう。しかしそうすると、『完全自殺マニュアル』以降一貫したテーマで著作をものし、そこから多額の印税を得、他者から見れば一貫した人格として社会生活を送っているライターとは何者か? いつも同じスタイルで社会を挑発し、自己否定に居直り、人格の分裂に悩んで自殺をしたりせずにいる著者は、いったい誰なのか?

 それはさておき、人格の一貫性の破綻とはとりもなおさず精神病理である。そもそも一貫した人格が存在なければ人は社会生活を営むことができない。そして当然ながら社会生活を営まない人間は想定することすらできない。人間は本質的に社会的存在なのである。

 つまり社会に生きるぼくらは、「私」とはいろんな要素が統合された一貫した自己であること、言い換えれば「近代的自我」であることを否定できないはずなのだが、自らがその中で生きているはずの社会を忘れた、観念的で原子化された「個人」は、そのような曲芸ができると信じているらしい。

 その根本的矛盾に気づかぬふりをしているのか本当に気づいていないのか、同書は無邪気に薄っぺらい言葉の遊びを繰り広げているのである。

(以下続く)
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by type1974 | 2005-09-12 15:20 | 自殺
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