『完全自殺マニュアル』完全批判

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かつて『完全自殺マニュアル』(鶴見済著)という本が世間を騒がせた。

 その自殺を奨励するようなミもフタもない内容は、当時オウム事件で社会倫理的な「底が抜けた」脱力感をいだき、宮台真司氏の「終わりなき日常」「意味もクソもない」という言説に説得力を感じたとくに若い世代を中心に、ちょっとした社会現象にもなったものだ。そして実際に少なからぬ自殺者に生んだという。

 たしか発刊はちょうど自分が大学に入ったころだったと思う。当時の暗くて索漠とした気分にぴったりの、無機質でアイロニカルな装丁が目を引く同書を書店で見かけ、即座に購入したものだ。そしてその内容に「ああ、キツけりゃ死ねばいいんだ」という「答え」を得たような気になったのを思い出す。

 あとで聞くと、親はそんな本を買って実際に死ぬんじゃないかと心配していたそうだ。死ぬ気はなかったけれども、何かつらいきっかけがあればわりと簡単に実行していたのではないかとも思う。『マニュアル』に書いてあるとおり、自殺はかなり簡単なことだから。

 その反(非)社会的な内容が問題視され、当時の朝日新聞で特集が組まれていたのを思い出すが、その論調はたしか「自殺はよくないけれども、死にたくなるようなこの社会で若者が自殺に出口を求めているのはもっともであり、その主張は否定できない。われわれはその現実を見つめなければならない」と、『マニュアル』が述べていることを追認するようなものであったと記憶している。
 何せ良識派を自認する大新聞がそう言っているので、これで社会的なお墨付きが与えられたのだと思ったものだ。いま思えば何と無責任な、と腹立たしく感じるのだが。

 もはや手元にないので覚えている範囲であるが、『マニュアル』の言っているところをつづめて説明すると:

・この世の社会構造は強食弱肉で、ひたすら抑圧的な意味もなくくだらないものである。
・そこでは人は歯車となるかドロップアウトするかしかなく、くだらない人生を押し付けられた被害者であるにすぎない(一貫した斜めに構えた被害者意識が同書の語りの特徴である)。
・人間は自分の弱い心、社会に適応できないダメな心を、結局どうすることもできない。
・その「真実」にどうしようもなく気づいてしまった人間、および歯車にもアウトサイダーにもなれない心の弱い人間が、そこからの出口としての自殺、手段としての死を、自分の権利とするのは当然である(自分には世の中のウソを暴露する能力がある、というナルシシズムもまた著者の基本的姿勢である)。
・そのために首つりから飛び降り、轢死、etc…の方法を、実例を交えて列挙する。クールにドライに、軽くてフラットに、かつおもしろおかしく。

ということになると思う。

 昨今、集団自殺の連鎖が社会現象となっているが、それを無責任に煽っているネット上のいわゆる自殺系サイトも、基本的には似たようなスタンスの同工異曲だろう。『マニュアル』はそれらのはしりだといって差し支えないと思うが、どうだろうか。

 しかし多少年齢と学びを重ねたいまなら、同書がどうまちがっているのか、そして毒が盛り込まれたいわば社会的「悪書」がなぜ正当に排撃されることがなかったのか、はっきりと言うことができる気がする。

 まず自殺に向かって吸い寄せられてしまうような、心の落ち込み状態、無気力、絶望感とは、その人の固定的な性格特徴であり、もはや変えることのできないものであるという、著者の無前提な人間観について。

 これまでちょっと書いてきたように、人間の主観的な気分や思考、信念というのは、自覚すればかなりどうにでもできるものであるのは明らかである。
 またそのことを、臨床心理学、人間性-トランスパーソナル心理学、さらには人間の内面に関する古代の哲学・方法論である仏教(呪術-神話的な信仰対象としての仏教ではない、念の為)は、幾多の臨床的データをもって明らかにしてきたのではないだろうか。

 もしこのことに対し反論するのならば、実際にそれらの方法論を批判者が試みた上で(方法を正しく履行したか検証を要することはいうまでもない)、直接経験された内面的・主観的結果にもとづいたものでなければならないだろう。または自分で独自の臨床例を積み上げて反証せねばならない。
 それが言葉の正しい意味での科学的姿勢というものだ。

 しかし世間的な常識では、人間の性格上の問題というのは、遺伝的欠損や幼児期のトラウマが刻み込んだ脳みその機能不全が原因であって修正不能、というような、粗雑な人間機械論が基調になっているといってよいと思う。
 つまり同書の一見真実を抉っていると見えるミもフタもない修正不能の人間観とは、実は単に世間的な常識に迎合したものにすぎない。
 要するに、人間とはこういうものにすぎないとクールに現実を洞察しているように見えて、人間の主観的な事実、心という内面のリアリティに決定的に疎い、ということである。

 次に、自殺を推奨する同書の主張の根拠は、かなり薄っぺらい通俗的なニヒリズムに基づく人間観・社会観であるのは明白である。
 しかしそうしたニヒリズムは、ちょっと自分の生きているあり方を反省してみれば、根本的な認識不足・錯覚にすぎないことがすぐわかる。
 その上、あまり知られていないことだが、近代主義に基づくニヒリズムとは、もはや現代科学が主流の今日において根拠を失ってしまっているものである。いいかえれば、前提自体があまりにも古くさいのだ。

 次回以降、べつに述べていくが、それらのことに無自覚に、あたかも自分が人間の真理を喝破した者であるかのごとく、脱力と死を奨励する著者の教祖化したナルシシズムは、古いを通り越してあまりに恥ずかしい。
 著者の、自分の視点の偏向と依って立つ背景に無自覚な、きわだったナルシシズムも、この本の批判されるべきポイントである。

 ところで、そうした人間機械論やニヒリズムが、この社会の暗黙の本音としてすでに自明化・空気化しているのは、おそらく論をまたないことである。
 だからこそ、そのことに見て見ぬふりをしている良識派の代表(いわば「いい子」の最大公約数)である大新聞も、そこをあからさまに衝かれると、眉をひそめつつ、それが世間の良識の裏にある「真実」であることを認めざるを得なかった。その本音こそ、さきに紹介した「朝日」のもっともらしい論調の背後にあったものだと思う。

 おそらくいま、ジャーナリズムのいわゆるオピニオン・リーダーから市井のぼくら一般人まで、「意味もクソもない」という無自覚なニヒリズムがいわば当たり前の共通感覚・常識になってしまっているといってよいと思われる。そのためにぼくらは、なぜ自殺が悪いことなのか、はっきりと言葉で言うことができなくなっているのではないだろうか。

 つまり、「自殺は悪いことなんだよ」と言う、その根拠が言えなくなっているということである。どころか、「自殺も本人の価値観にもとづく自由な選択なので仕方ない」と思っている人すら多いようである(「死にたいやつは死ねばいい」とは、かつて自分も本気で思っていたことである)。
 この本がかつてそれなりに流行したこと、それがいま自殺系サイトにおいてたくさんの亜流を生み出し、多くの脱力した人を引き寄せている背景には、こうした世間的な暗黙の常識があると見える。

 このように、『マニュアル』の著者の、一見この世の暗い事実を暴き出したかのような、寒々しいけれども本当の新しいリアルだと思えた主張は、じつはこの世間の常識的な暗黙の雰囲気に安易に乗っかったものであるにすぎない。だからこそすこしばかり流行したのだろう。

 そしてこのような本が堂々と普通の書店において平積みで売られつづけていたのだ。
 社会的責任という自由の本質的に重要なもうひとつの側面を捨象した、「あらゆる言論には、その社会への悪影響いかんに関わらず自由が保証されなければならない」という、あまりにも一面的で単純化された自由観が、その一見なにげない書店の日常の背景にあったことが見て取れる。

 そのころから始まったように思うのだが、さらにいま、個人がどのような情報を手に入れようとそれは「自己責任」においてその個人の自由-勝手であるという風潮が、なし崩し的に、とめどもなく進行している。
 ぼくらがコンビニで、子供が手に取ることができる書棚にあからさまに18禁の本が置いてあるのを最近見かけるようになったのも、ネット上で有害情報の氾濫(どころかそっちのほうが大多数に見える)が野放しになっていることも、そうした病理的な社会的雰囲気に根ざしたものであると思われるのだが、どうだろう。

 しかし悪いものは悪い、誤っているものは誤っていると主張せねばならない。でないと社会も、その中に生きる個人も、「みんな違ってみんないい」という没価値的なうんざりする多様性の中で、方向性を見失って溶解してしまうからである。というかそれこそが、ぼくらが強い違和感をもって現に日本社会に見ている倫理的崩壊現象なのではないだろうか。

 すべてが平等に尊重されなければならないというのは、自由と多様性がことのほか礼賛される現代にあっては当たり前で、むしろ正しいことのように思われるかもしれない。
 しかしそれを極端に押し進めて、すべての視点に平等な価値があるとするなら、人間的成長と自殺、慈悲と殺人、平和と戦争、エコロジーと環境破壊、マザー・テレサとヒトラーが、同じように尊重されねばならないことになってしまう。それは単なる思考停止・判断停止である。
 これは極論だろうか?

 ここで俎上にする『マニュアル』は、そもそも思想とも言えない思想がベースになっており、いろんな詰めの甘さがあって穴だらけなので、批判するのは幸い容易である。
 引き続き学び得た範囲で根拠をもって、同書ならびに同書が代表したような虚脱的な厭世観がいかに偏狭な錯覚に基づくものであるか、さらにいまの視点で見るといかに「恥ずかしい」ものであるかを、明らかにしていきたいと思う。
 記憶を頼りにやっているので錯誤が当然あると思うが、その点はするどくご指摘いただければと思う。

 かつてこの『マニュアル』に影響を受けたものとして、一度はっきりと言葉でこの本を斬っておくことは自分にとって意味があることだし、またこの本の二番煎じや自殺系サイトを見てなんとなく納得してしまった方が、そうした一見もっともらしく聞こえるニヒルな真理主張にじつは根拠がないことをちょっとでも納得していただければ、とてもうれしい。

 かつての自分に語るつもりで、このことを書こうと思う。
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by type1974 | 2005-09-08 15:14 | 自殺
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