過去を「反省」するとは

人気blogランキングへ

 ぼくらは、大きな「私たち」である日本の過去をどのように捉えればいいのか。

 日本が過去に侵したとされる戦争犯罪はたしかに反省すべきだが、かといって、客観的な検証がないまま相手の言うことを鵜呑みにして謝りつづけるのは言葉の正しい意味で「卑屈」だ。卑屈な人間はカモにされる、というのは国際関係にも当てはまると思う。

 反省は自己非難や卑下とは似て非なるものだ。にもかかわらず、それが無自覚なまま概念的に混同されているために、ぼくら国民に大きな認識と感情の混乱をもたらしていると思う。とまれ、反省するためには当時の大きな状況を公平に踏まえる必要があるだろう。

 たとえばぼくらは、かっこよくてフェアなアメリカが軍国主義日本をうち破って平和と自由と民主主義をもたらしてくれたと、ほぼ条件反射的に考えているといって差し支えないと思うが、どうだろうか。

 しかし日本が戦争犯罪をおこなったというなら、彼らの行った都市への無差別ジェノサイド爆撃も原爆投下も、一般市民の虐殺として同じように犯罪的であるはずだ。

 とくに原爆ついてははっきりしている。
 アメリカはその威力を確認すべく人口の大きい都市を投下目標に選定して、焼夷弾による都市爆撃リスト(アメリカは人口順に日本の都市をリストアップし、頭から虱潰しにしていたのだ)から除外し無傷のままで保ち、その人間の生活する都市の上で原爆の威力をテストしようとしたのだという。
 実験のためには被験者は健康でなければならない、ということか。計画的という意味でも、まさにかのアウシュビッツに劣らぬたいへんな非人道的犯罪といって間違いない。

 もしそう捉えることに抵抗があるとすれば、それは「原爆投下は正義のためだった」という彼らのバイアスを、とてもすなおに自分のものであるかのように鵜呑みにして、疑問を抱いていないからだと思う。もちろん戦後民主主義教育で育った自分にも、そういう抵抗感がこうして書いていて現にはたらいているのを感じる。

 ちなみに京都や奈良、鎌倉は文化財保護のために爆撃目標とされなかったという「美談」がいまでも通用しているようだが、それはGHQの民間情報教育局による意図的な政策宣伝がマスコミを通じて流布したものであるとのこと。

 実際には、京都は最後まで原爆投下の第一目標にあげられており、他の投下目標と同じように原爆のために「予約」されていたために通常爆撃を免れていたにすぎない、というのが真実らしい。三発目の原爆は敗戦の日までに完成して投下寸前となっており、京都の運命は風前の灯火ともいえる状況であったという。

 奈良、鎌倉が爆撃を受けなかったのは、単に人口が少なかったために爆撃リストの下位にあったからであって、奈良については爆撃直前に到っていたという。

(『京都に原爆を投下せよ』吉田守男著、参照。きまじめな研究書で、米国の一次史料にもとづいてこのことをほぼ論証しているといっていいと思われる。)
 
 このような意図と性格を持った原爆投下や都市空襲が、これまで日本ではあたかも自然災害や罪を犯した国への天罰であるかのように語られてきたのではないだろうか。でなければ、あたかも犯人の存在しない犯罪のように。

 例を挙げるまでもなく、そのほかのどの国も多かれ少なかれ、いずれこうした戦争の罪責から自由ではない。もっぱら他者を非難する者は、だいたい自分自身の足下への注意がおろそかになっている、というかなかば意図的に見ないふりをするものだ。

 もちろん、だから日本が免責されるということではなく、そうした世界の相互関係と、通史的な大きな枠組みで捉えなければ議論にならない、ということにすぎない。

 思うに、歴史に免責はないというのなら、戦争犯罪を論じるには、原則的には歴史始まって以来のすべての戦争を取り上げなければならないことになるはずだ。いつから時効になるかを決めるとしても、それは恣意的な線引きにすぎないだろう。

 歴史を通してみても、同時代の国際関係を考えても、あるひとつの事柄を取り上げて、「自分たちは悪事のみをおこなっていた」とか、「お前は絶対に悪くて、自分は完全に被害者だ」ということはできない。
 にもかかわらず、そうした硬直的で粗雑で過度に一般化された議論、というか非難合戦が横行しているように見受けられる。不毛というほかないと思うのだが。

 思考の硬直化、極端化、過度な一般化は、とても有効な心理技法である論理療法でいえば、まさに《イラショナル・ビリーフ》、つまり非合理な思い込みの特徴である。

 歴史的事実の認定という議論もさることながら、それ以前に必要なのは、ぼくら個々の国民が日本人としてのアイデンティティに関わる非合理的な思い込みと取り組むこと、そしてそれを通じて集団としての日本文化が、非合理的で教条的な自己非難から解放されることであるように思われる。

 日本近代史は罪悪の歴史であるとほとんど条件反射的に捉えてしまうような、ぼくらが学校教育やマスコミを通じて植えつけられた歴史認識、いわゆる「自虐史観」に、そのような硬直化した信念・思い込みがはたらいているように見受けられるのだが、どうだろうか。

 アカデミックな歴史研究を例にとると、一見きわめて理性的にクールに、文献的証拠や先行研究を踏まえて歴史的事実の解明をおこなっているように見えながら、そもそもそうした研究を行わせている動機や、テクストから「歴史的事実」を読み取るコンテクスト、学会の何が正しいのかを判定する基準、それらの背後・深層に、自明のものとしてはっきりと自覚されないかたちで、そうしたビリーフがはたらいているということである。

 個々人に落ち込みなどの心理的問題をもたらすイラショナル・ビリーフとは、思考の枠組みとして半ば無意識化しあたりまえのものになってしまっているために、当の本人は往々にしてそれがあることに気づいていない。人に指摘されて「ああ、そういえば」と気づくものだ。
 要するに、あまりに自分の視点に近すぎて、というか視点そのものとなって距離ゼロになっているために、盲点に入ってしまっているのである。

 すると、もし戦後のいわゆる進歩主義史観、いまでは上はアカデミズムから下は小学生に到るまで、疑いもなく抱いて常識となっている歴史観のベースに、そのような理に合わない潜在的な思考がはたらいているとしても、それが反省されえないのはいたしかたないとも言える。

 人は文化的文脈のなかで善悪や何が真実なのかという価値判断を行なうものだが、その文脈・文化的枠組み自体を相対化するというのは、普通に生きていたら難しいことだし、大学アカデミズムでポストを得てそのことでエスタブリッシュしている歴史学者にはなおさら難しいことだろう。

 自己非難によってうつ状態になっている人は、典型的に次のようなイラショナル・ビリーフを持っているという(これは落ち込みがちな自分を振り返ってもきわめて納得がいくことだ)。
 歴史認識にかかわる、いろいろもっともらしい議論の背後に、このような自明化された理に合わない信念がはたらいているとあきらかに見てとれるのだが、どうだろうか。

・罪を犯した自分たちは絶対に悪く、つねに罰せられなければならない。
・われわれの過去は、すべて罪悪にまみれている。
・自己批判こそが真実と正義をもたらす。
・自己愛や自己承認は傲慢におちいるので危険である。
・悪いことをした自分は、迷惑をかけた人々を批判してはならない。
・そのように判断する自分たちの見解はぜったいに正しくなければならない。

 見てわかるとおり、現実的視点から論駁する余地のいくらでもある、論理にならない論理である。つまりイラショナル・ビリーフとはそのようなものなのだ。しかし体験上よくわかるのだが、気づいて取り組めば確実に換えていくことができる。
 まず気づくことが治療の第一歩になる。そしてそれは個人に限っていえば、かなり容易な作業のようである。

 ぼくらが国民として、集団に生きる個人として、自信・自尊心を取り戻すためには、右に左に歴史認識を云々する以前に、自らの思考を無自覚なところで規定しているこのような思い込みを、自覚し、論駁し、解消する必要があるだろう。
 繰り返すが、それは思った以上に容易な作業であるようだ。
[PR]
by type1974 | 2005-09-02 18:54 | 歴史
<< バスと猫とおじさん 簡単な紹介の、つもりが >>