『完全自殺マニュアル』完全批判(7)

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言葉の、耐えられない軽さ



 さて、本書の内容に取り組むことに移りたい。
 だがその前に、内容それ自体の性質を問題にする必要がある。

 著者は、たとえば「はじめに」のおける“なぜ自殺がOKなのか”という社会批評めいた文章などのもろもろは、すべて営業上の理由でとってつけた「ゴタク」にすぎないのだと述べている。
 つまり、そもそもそういうもっともらしい執筆動機などは初めからなかったと言うのである。

 その言葉を額面通り受け取るなら、自殺についての即物的な記録やデータ以外の、一切の著者のメッセージめいたものは意味のないガラクタと選ぶところはなく、したがってすべて無視して構わないことになり、それはそれで大いに結構だと思う。
 だれも単なる見えすいた営業トークを真に受けて死のうとは思わないだろうから。

 しかし問題は、著者の真意がそうであるとはまったく見えないことにある。
 また、自殺の“手引き”等の記述に込められた、その冷たいメッセージの伝染性ゆえにこそ、この本が強い影響力を持っていることを無視するわけにはいかない。

 すなわち、どう読んでも、冒頭などに述べている空虚な「ゴタク」こそ、著者のある種の意図・動機・目的・メッセージとして先にあり、大部分を占める“死のマニュアル”はそれを伝えるための手段として後にあるとしか見えないのだ。

 それは読み手の主観にすぎない、ということはできないだろう。
 というのも、“マニュアル”部分の一見即物的でドライに見える記述のすべてが、冒頭に表明された著者固有のニヒリスティックなものの見方・文脈に位置づけられるものであることが、意識して見ればおそらく誰の目にも明らかだからである。

 本書は、全編にわたって家電廃棄物の処分マニュアルよろしく、自殺という重いテーマの、単なる事実的・即物的な表面を、軽薄かつドライな言葉でなぞってゆく。
 そして自殺者の死に様と、死の現場の状況と、その周辺的なエピソードとが、文字通り商品カタログのように淡々と陳列されている。

 クスリは何グラムが致死量か、縊死の際の頸とヒモの角度はどうあるべきか、飛び降り自殺ではどんな音がするか、列車の車輪に切断されると死体はどのようになるか、等々。

 いくつかの例外を除き、死者はそもそも人間として扱われていない。
 彼らに苦悩する内面は存在しない。あたかも外面だけ、モノとしての人間だけが真実だと著者は言いたいわけだ。
 共感らしき言葉を述べた箇所もあるが、それらも後で明らかにするようにはっきりと偽善的なものである。著者はある種の高みから距離を置いて観察して、それらの死を“おもしろがって”いるからだ。

 つまり、本書はすべての自殺のケースについて、自殺者の主観を完全に排除ないしひどく矮小化し、モノの集まりにすぎない(『人格改造』で見たとおり)“人間機械”である人間が、社会に適応できない欠陥品、あるいは社会の歯車にすぎないことに自ら気づいてしまった規格外の歯車として、それにふさわしく自己消滅していく様であると、一貫して描いている。
 すなわち「欠陥製品の自己破壊のデータ」というのが彼の自殺に対する不変のスタンスとなっている。

 もちろんこれも一定の読み方と言えないこともないと思われるので、もしそうでない読み方があれば修正する用意がある。その場合はぜひ教えていただきたいと思う。しかしいずれ空虚で陰惨なものであるには違いないだろう。

 ところで、自殺をどう捉えるかということについては、人により文化により思想により、例えば“自殺は罪悪だ!”から“尊厳ある死だ!”まで、“一時の気の迷い”から“運命の必然”まで、“魂の救済”から“虚無への消滅”まで、“悲劇的なロマン”から“実存的苦悩の帰結”まで、“自殺”から“自死・自決”まで、おそらく無限のグラデーションをもった多種多様な見方がありうる。

 その中で、本書の自殺に関するすべての記述は、冒頭に宣言された「生きるなんてどうせくだらない」「自殺は終わらない世界を終わらせるためのポジティブな行為だ」という、一つの特殊なコンテクストだけを選択し、それをどこまでも忠実になぞっているにすぎない。
 「あらゆるベクトルは『どうやって自殺するか』という方向に向いている」のは、著者自身の“ゴタク”で明かされた目的に沿う表現にほかならないのである。

 つまり本書のあらゆるところに、「はじめに」で表明された特有なものの見方へのこだわりを指摘できるということだ。そのフラットを装った表面の下に書き手の隠微な意図が潜んでいるのを、必要であれば随所で論証することもできよう。
 それはおそらくひじょうに徒労感をおぼえる作業になるだろうが。

 このように、著者は卑怯にも外面・表層の言葉の背後に隠れて、彼自身のナイーヴな動機を存在しないことにしようとしているわけだが、それにしては冒頭のニヒルに徹しきった語りは、陳腐だが執拗で鋭利で、ある種の実感がこもってはいなかっただろうか?

 しかし結局、彼は本書の末尾においても「あれは取って付けた話にすぎない」と、あらためて自分の意図らしきものを全部否定してみせる。あきらかにそれがあると見て取れる彼自身の視点へのこだわりを、そこまで無いものにしておきたいのはなぜなのか?

 それは、あたかも本が先にあって著者が後から出現するというような、ありえないまやかしにほかならないなのだが。



 このように、本書で語られる言葉はどこまでも軽く薄く、そして矛盾に満ちている。

 人の内面を見ることを拒絶し(あるいはほんとうにできないのかもしれない)、にもかかわらず自分の内面の動機を(後で見るようにそれがどのように低劣なものであっても)表現しながら、同時にその動機自体を否定してみせる、著者の皮相で欺瞞に満ちた言葉は、その最初から信用しがたい。

 本書は、自殺を否定し生を肯定しようとする、あらゆる常識的な言葉を、すべて嘲笑し拒絶する。そしてそのことによって、いわば人を生に向けて動機づける一切の言葉への無力感・不信感を表現しようとしている。

 つまり著者は、言葉が心に及ぼす影響力というものを、基本的にまったく信用していないという態度をとっている。流行の価値相対主義の波に乗っかって、言葉に「意味」や「価値」を読み取るのは幻想だ、言葉の影響力を拒絶することこそがクールであり真理だと、そう言いたいのだろう。

 そして、言葉によってリアリティを構築するような幻想に気づき、幻想をすべて拒絶している自分は、その幻の中で“生きる意味”などを“熱く”語ったりしているすべてのくだらない常識的な人間にくらべて、はるか高みに立っているのだ、とでも言いたげだ。

 「自殺を止める有効な言葉はとっくになくなってしまった」と、著者は彼自身の言葉をもって断定する。自分の言葉に限っては、そのように無前提・無根拠な価値判断を下す力があるというわけだ。

 しかし、そうした著者の暗黙の意図は、通俗ニヒリズムという思考内容・思想、つまり言葉のシステムとして彼の内面に構築されたものであるのは確実だ。「こうして無力感を抱きながら延々と同じことを繰り返す僕たち」、すなわち“暴力的に空虚な世界における無力な被害者”という物語として。

 さらにその表現は当然ながら彼自身の言葉に依っており、そのメッセージは本書でやっているごとくすべて言葉によって伝達され、それを真に受けた人間にある種の“真理”の言葉であると受け取られ、相応の影響力を発揮して信奉者を得たりする。

 つまり、言葉一般の真実性を全部否定しさるその自分の言葉だけは疑いのない真実だ、という暗黙の前提がここにある。すべて相対的で正しいものなどない世界でただ一人真理をつかんだ自分、という疑いのないナルシシズム。その根本的な遂行矛盾に気づいているのだろうか?

 読めばすぐに明らかなとおり、(前に扱った『人格改造』と同様に)世の常識的な言葉一般を否定し攻撃する著者は、そうやって自分の語る言葉に限ってきわめて愛着し信頼し、それを伝えることに大いに意味を感じていることは確実だ。

 先に明らかにした自分自身の動機を無いことにしようとする著者の欺瞞的な態度は、その “恥ずかしい” 根本的な自己矛盾を隠蔽するためのものであることが、ここに見て取れるだろう。



 したがって、そのいちいちの言葉をあげつらうのは、煙を手で掴まえようとするのと同じく無意味で、どこまでも後退して逃げる敵に正面から取り組もうとするのと同じくまったく非生産的だ。きっとそれはとても退屈な作業になることだろう。

 だから、そういう空虚な世界を見ている著者の視界の盲点を衝くこと、小さくて薄っぺらくて陰惨な物語を紡ぎ出している彼自身の物語を暴露し解体すること、喋ることに夢中でおろそかになっているその足下を払って引き倒すことに、ここでは集中することにしよう。



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by type1974 | 2005-09-28 14:08 | 自殺
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