『完全自殺マニュアル』完全批判(6)

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“幻滅”の再会


 本書を人から借りることができ(有難うございました!)、十年以上ぶりにあらためて読んでみたが、記憶していた以上に浅薄で寒々しいという印象だけが残った。

 人の記憶というのは、その後生きてきた時間や、考えてきたこと、出会った人からの影響、等々によって後からかなり再構成されるものなのだと実感する。もう少し切実な「何か」がここに語られていたように思ったのだが。

 本書のほとんどのページは、自殺の方法、死に関するデータ、死者たちのそこに至る事情を、表面的に興味本位になぞることに割かれていて、距離を置いて見れば、その情報の刺激性でターゲットとしている購買層の興味をそそろうとしているのは明らかだ。

 また、一見乾ききっているようで、どこか人の歓心を買おうとしているのが随所にかいま見えるその語りや、死にたい気分を確実に増幅してくれるであろう温度ゼロのクールな装丁デザインが目を引くばかりで、批判すべき内容がそもそもどの程度あるのかすら、疑問に感じられてしまう。

 あまりにも薄っぺらであることに、かつてこの本に一定の影響を受けた者として、情けないものを感じるのである。こんなものを真に受けて死んだら確実に後悔しただろう(いや、死んだらもちろんこうして後悔もできない。『完全自殺』を読んで死にたい気分の方、ちょっと待ったほうがいい。これから説明するようにこの本はあまりにもかっこわるすぎるから!)。

 しかしそういう「内容」を最初から存在しないことにしようというのが、後で見るようにこの著者の姿勢なのだから、それはじつはしごく当然の印象なのである。

 そこに書いてあるとおり、死ぬのは、多分とても簡単だ。そして若い時分にはそれがとても刺激的な“真理”のように思えたものである。
 本書の死へのそそのかしに疑いも抱かず乗っかって、「いざとなったら首をくくってしまえばいいんだ。みんなはこの“真理”に気づかずアクセク生きてるにすぎない」と、妙な優越感みたいなものを感じながら、重くはないけれどもかなり本気で考えていたのが思い出される。

 ついでにいえば、「『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、…ちょっとは生きやすくしよう」というこの本の「本当の狙い」は、そういうかつての自分に関していえばまったく外れている。
 逆に自殺をそのように軽く捉えることによって、自分のいのち・存在も同じくどこまでも軽く感じられ、索漠とした気分はますます加速した。

 “より生きやすくするために自殺という選択肢を自分の中に認める”というのは、結局人の意識の本質というか方向性に反していて、主観的な事実として破滅的なのだと思う。

 なぜなら、そう捉えることによってあえて生きる根拠はさらに見失われ、自分の存在はますます軽くなり、逆に心は重くなるばかりだから。
 意識は社会から切り離され浮遊し、自分がそこに生きているはずのリアリティが壁の向こうに白茶けて見えて、自分がいてもいなくてもいい存在に感じられてしまうから。


 さて、今思えば、まさにかつての自分は、この本の著者の意図や出版社の販売戦略に、あまりにも簡単に乗せられてしまっていたということになるだろう。そう、あまりにも素朴に、素直に、疑うことなく。

 免疫がないというのは怖いことだ。それは身体にとっては生命にかかわるきわめて危険な事態を意味する。
 思考もまた言葉に乗って伝染するものだから、安易にこういう有害な言説に感染しないために、心にはそれに対抗する免疫としての思考内容が必要となるだろう。つまり心にも免疫、言葉を換えれば自我防御機制が存在するといえる。これは単なる比喩ではない。

 ぼくらの祖父祖母であれば(世代によるかも知れないが)、本書のような言葉に出会ったら即座に「そんなこと、神様(/仏様/天地自然/ご先祖様、バリエーションはいろいろあるものの人間を超えて見守っている何者か)に申し訳ない!」とびっくりして叫んだに違いない。
 彼らが大切に守っていた神話という心の免疫は、「自殺OK」というような破滅的な言葉の侵入につけ入る隙を与えなかっただろう。

 ぼくらは、ご先祖様たちが持っていた信仰をはなから非科学的だとバカにするよう条件付けられていて、免疫として心を守り支える言葉のシステムという、神話の本来の機能と意味を、もはやほとんど見失ってしまっている。
 それは時代状況としてやむをえなかったにせよ、喪失が喪失であることに変わりはない。

 そして近代化された鉄筋コンクリートの学校で、ぼくらは柔軟な子供時代、一日何時間・十何年にもわたって教室に座らせられ続け、突き詰めれば「すべてはモノだけで意味もクソもない」という結論に到ってしまうような、無味乾燥な“お勉強”をたたき込まれてきた。
 そういうわけで、「いのちの大切さ」というようなきれいでいてじつは根拠のわからないお題目を申し訳程度に聞かされながら、一方「自殺はとてもポジティブな行為だ」というような、破滅的な言葉の病原体に対して効果的な抗体を、ぼくらは少しも身につけさせてもらっていない。

 そうした心の空白、価値判断のマヒ状態は、人を何かの病気に感染させてそこから利益を得ようと狙う者にとっては、格好の隙となるだろう。
 そこに巧みにつけ入って、今でもこの『完全自殺マニュアル』を売りまくっている汚い人間たちがいる。「すべて価値など存在しない」という自分たちの価値を病原体としてばらまきながら、彼らはこの本によって多額の利益を吸い上げている。


 話を戻すと、そういうふうに「死ぬなんて簡単なこと」という考え方にある程度染まったつもりだったが、しかし社会に出、人の中で生き生かされてきて、そして必要なことは学びなおして、人生がけっこう生きるに値するものだと思えるようになると、この本は“自殺”をことさらにあげつらうことでいったい何が言いたかったのか、という感じになってきた。
 そしてそんなことを考えるのも日常の中で面倒くさくなって忘れ、いつしかこの本も手放していた。

 しかしいつもどこかで、この本の存在が気になっていたように感じる。
 この本の言葉の、冷たく切り込んでくるようなメッセージが心のどこかにひっかかっているような気がしていたのだ。

 そのことに違和感をおぼえたのも、こうして書いている動機のひとつとなっている。


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by type1974 | 2005-09-25 21:42 | 自殺
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